窓のそと(Diary by 久野那美)
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このところ、体調を崩してダウンしてたので、友達がお見舞い(?)に来てくれた。「ストリップキング」の座付き作演出家で女優の一文字マリーさん。 本人曰く、「俗っぽい本」を書く、お洒落で華やかなひとで、なにをとっても私とあんまり接点がなさそうなんだけど、友達。 いつもは飲みに行くんだけれど、今日は飲めないのでお茶。 (飲みに行っても、彼女は飲まないので結局私ひとりで飲んでいる。)
いろんな話をしたんだけれど、何かの折に、ふと、彼女が言った。 「那美ちゃんて、飲めるから偉いよね。うん。演出家はそうでないとね。」 「??????」 「打ち上げの時、いつもグラス空けておけるでしょ。」
そうなのだ。彼女の論理ではそうなのだ。 でも・・・・・。 「あ。でも別に、空けとこうと思ってるわけじゃないのよ。だって私、空いたら自分で入れるもん。」 「ううん。でも、空けておくのは大事なことよ。私、そのためにビール飲むの練習したんだから・・・。」 「・・・・・・・・・・。」 「ほんと、いつも偉いなあって思ってたのよ。」 「・・・そう?」
話の軸が見えないと思うので、解説します。 彼女と知り合って、はじめて話し込んだ日の会話。 今でもすごくはっきり覚えてる。 いろんな事情が重なって、烏丸の駅の階段で一晩・・・は4年前だったっけ?
「私はお世話になったひとにビールをつがないことにしてる。ご挨拶する時は、空のグラスを持って行ってついでもらうの。」 彼女は、そう言った。 「・・・見てて誤解する人がきっといると思うけど・・。」 私は、そう言った。 「しょっちゅう誤解される。」 「・・・そういうとき、辛いね。」 「うん。」
そのとき。 わたしたちは、「相手を大切にすること」について話していたのだと思う。
「ありがとう。」と言える立場に<自分を>置くこと。 そして、全身全霊を込めてそれを相手に伝えること。 「ありがとう。」と言えない厚意はうけとらないこと。 相手の存在や、その行為の価値が最も高くなる状態で接すること。 それは誠心誠意の<誠実な>態度なのだ。 だけど、それは端から見ていると「無能だ」とか「傲慢だ」とかいう風に見えるので、関係ない人からいろいろ言われて落ち込む。 礼を尽くしたい相手に伝わればいいんだから、と割り切れればいいんだけど、割り切れずに落ち込む。 どうすれば、落ち込まなくてすむのかわかってる。 でも、できない。 できない理由もわかってる。 <自分が誰かの役に立つ>ことに自信を持つのが怖いからだ。 <あなたのために>と自信を持って言うひとが怖かったからだ。
彼女の言ってるのは、そういうことだよね? と、私は理解した。
だから。 ビールのグラスを空けておく、という行為は、彼女にとっては大変に誠実な行為なのだ。とても具体的でわかりやすい話。私は飲むときはそこまで具体的に考えてなかったなあ。たぶん、アルコール耐性が強いからだと思う。
「偉いよね・・。」 とまじめな顔で言うその言葉はとても真摯な彼女の態度を表しているのだと思うので、ほんとは笑っちゃいけないんだけど、なんだかとっても可愛いらしくて可笑しかった。いつも、何も考えずに私がビールをごくごく飲んでる間、このひとはそんなことを考えていたのか・・・・。
彼女の主義主張はいつも、とても具体的だ。 理念やポリシーや責任を具体的な行為や言葉で表現することは存外に難しい。 でも、具体性や実用性を伴わない優しさになんの意味があるだろう? さらりとそれができるのはとってもかっこいいことだと思う。 本人が無自覚なだけに、よけいにそう思うのだ。
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おやすみの日を一日つぶして会いに来てくれたマリーちゃんは、 「最近、身体なまっててさぁ。今日はいい運動になって助かった。ありがとね♪」 と言って帰っていった。 「それはよかった。また来てね。」 と、私は言った。
繊細なひとはたくさんいる。 ひとに親切にするのが好きなひともたくさんいる。 だけど、それと、相手をリラックスさせる能力とは、実は全然関係なかったりする。彼女と話してると、私は自分がとても単純な人間に思えてきて気持ちいいのだ。 自分が無神経なことが気持ちいいってすごい贅沢! 借金は返せない人がいちばん強いっていうじゃない? いちばん無神経なひとがいちばん楽できるじゃない? 他人に楽させてくれることに長けたひとと過ごす時間はとっても贅沢。 無駄使いしないようにしないと。 こんなとこでなんだけど、ほんとにありがとう。
テレビで。 統合失調症を特集した番組を見た。 長期的に幻覚や幻聴に苦しめられる病気だそうだ。 お薬でだいぶよくなることが分かってきたけれど、差別や誤解も多いらしい。
今は社会復帰しているある患者さんがインタビューに答えていた。 幻覚がいちばんひどかった時期の話をしていた。 いろんな敵が四方八方から襲いかかってきたという。 敵はどこにでも潜んでいて、どこまでも彼を追いかけてくるのだという。
病院へ行くタクシーの中で、彼は襲いかかる敵と闘っていた。 逃げても逃げても追いかけて来る得体の知れない敵。 斬りつけても斬りつけても起きあがって襲いかかる無数の敵。
「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」 と彼は大声を上げて敵と戦っていた。
一緒にタクシーに乗っていたのはお父さんだったそうだ。
−−お父さんはそのとき、どうされていたんですか?−− インタビュアーは質問した。
−−手を振り上げて、僕より大声を出して奴らと闘ってくれました。−− −−「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って?−− −−ええ。「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って。僕より必死でしたよ。 −−−じゃあ、ふたりで? −−ええ。ふたりでやってました。「やあっっっ!!!やあっっっ!!!やあっっっ!!!」って・・・。
それを語る彼の表情はとても明るかった。 どきん、とした。 人間としてとても贅沢な幸せを、彼は知ってるのだと思った。
突然得体の知れない敵に襲いかかられ追いかけられるのはどれほどの恐怖だろう。彼の目にしか見えない敵からは警察も友人も守ってくれない。ひとりで闘わなければ、あるいは耐えなければならない。解決しなければならない。幻覚であろうが幻聴であろうが、彼にはそれが切実な現実なのだ。 彼以外の人間にとっては全く意味のない、切実な現実。 父親だって、息子の恐怖が<非現実的>であり、それを<現実に>感じてしまう息子の側に問題があることもわかっている。
だけど父親がとっさに肯定したのはその事実ではなく、<非現実的な>恐怖に<現実に>傷ついている息子の存在だった。 そこで語られている出来事のおおきさに、私は絶句した。
インタビュアーに、彼はこの出来事を冗談めかして語っていた。 幻覚から解放された彼は、そのときの父親の行動が思い切り<非現実的>であったことを理解しているのだ。 同じ病気と闘うひとたちの集う会場には笑いが起きていた。 それはとてもとても温かな、祝福に満ちた笑いだった。
互いに<非現実な>世界にいる相手の存在を全面肯定すること・・・。 これが愛でなくて何だろうか。
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誰かにとって最も切実なことはそれ以外のひとたちにとっては最も非現実的なことだったりするのだろう。 私は自分の経験したことしか書けないので、自分では、とてもリアルで現実的な物語を創っていると思っている。私には幻覚や幻聴はないけれど、しばしば「観念的」とか「非現実的」とか言われということは、私の現実は私以外の誰かにとっては幻覚や幻聴に等しい、非現実的な物語なのだろうと思う。だからよけいに、遠くを指す言葉で語ろうとしてしまうのだろう。
だって。
自分にとって切実な現実を誰かに見届けてもらうことで、その経験や感情を、そしてひいては自分自身の存在を肯定することができる。 だけどもしその誰かがどこにもいなくても、遠くにいる誰か(物語の中の誰か)が同じ感情を持って存在している姿を私自身が遠くから見届けることができれば、そこから私は自分自身の存在を肯定することができる・・・・・・・。
物語というのは、愛を自給自足するための装置なのかもしれない。 こうやって書き出してみると、なんだか手の込んだ、へんてこな装置だけど。
2003年11月07日(金) |
みんなで何ひきでしょう |
ある掲示板で。テストの珍解答特集というのがあって。 「ひきざんのもんだいをつくりなさい。」という問いに対する 小学校1年生の男の子の答・・・・・。
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こうえんにひよこが8ひきいました。 おサルさんが3ひきかえりました。 みんなで何ひきでしょう。
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難問だ。 見てからずっと頭から離れない。 一生懸命解いている。 まだ分からない。 いつまでも解いてるような気がする。 すごく気になる。
・・・<みんなで>何ひきなんでしょうか。
誰にでも何にでも、「各々の事情」というものがある。 各々の事情が1カ所に集まったときに、そこに現れる物語が私はとても好き。 各々の事情は、各々に属しているので、一カ所に集まったくらいでは簡単に輪郭を持たないかもしれない。特に、みんながそれぞれにてんでばらばらな「各々の事情」を持ち寄って来たりしたら。 「各々の事情」は各々に属しているので、他のひとやものが取り込むことはできない。誰かが誰かの事情でそこでそうしていることに、他のひとたちには責任も原因も負うことができない。
だけどばらばらの責任や理由にそれぞれ導かれてひとやものはしばしば一カ所に集う。ひとつの状況を、たくさんの事情が共有している。 「状況は」混沌と化す。 場合によっては意味不明にもなる。 だけど意味はある。いっぺんに見ると不明なだけで。
俯瞰してしまえばとりとめがなかったり、意味不明だったり、矛盾していたりするその「状況」の中に、断固として確固として、「各々の事情」は存在する。
そこには原因があり、理由があり、結果があり、文脈がある。 必ず、ある。 当事者以外には何の意味もない、当事者以外には何の合理性もない事情にも、絶対に、ある。
各々の事情だけを丁寧に矛盾なく描いてあげたいと思う。 その文脈をきちんと見ていてあげたいと思う。
そう思って、物語を創る。 言葉や台詞のひとつひとつに理由がある。 名詞にも助詞にも助動詞にもある。 声の大きさやアクセントの位置にもある。 会話してるのだから当たり前だ。
火星人が土星の犬と散歩する状況には火星人が土星の犬と散歩する原因と理由と文脈がある。それは物語の中に、描かれていてほしいと思う。 そうしてはじめて、観客(読者)はそれに違和感を覚えることもできるし、共感することもできる。そこから離れて別の何かについて考えることもできる。
「不思議な風景」「いろんな解釈ができる。」「イメージを固定しない」 というのは当事者(各々)ではなく、それを俯瞰しているひとの事情を表した言葉だ。
「各々の事情」に唯一責任を持ちうる<作り手>の側からは使いたくない言葉だ。
私は、ずっとそう思ってる。 どれくらい妥当なことなのかわからない。 だけど19のときから、私はずっとずっとそう思っている。 だから、一緒に作るひとたちにはそれを説明しなくてはいけない。 共感してもらえる言葉できちんと説明しなくてはいけない。 あるいは、絶対に共感してもらえないことを受け入れなければならない。
未だに叶わずにいる。 現場へ行くたび、それを痛感する。 私の信じていることがどれくらい妥当なことなのかはわからないけれど、 説得力のない思想でひとを説得しようとすることが正しいとはことではないということは分かる。
自分自身がとても悔しい。
こうやって、書いてみても・・・やっぱりさっぱっりうまく言えないのが、 ますますまた悔しい・・・・。
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