窓のそと(Diary by 久野那美)
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客席はどこにあるのか。 お芝居を創るときにいつも悩んだこと。
以前もこんなこと書いている↓。
(参照→)「客席はどこにあるのか?」
>客席は、本当はどこにあるのか…。 >稽古だけしていたらわからないけどこれは大問題だ。 >舞台を見るたび作るたび、毎回悩んでしまう。 >お客さんは客席にいて舞台の一部始終を見ている。 >でも舞台にいるひとたちは誰もそれに気づかない。 >気づいてるのかもしれないけど、みんな黙っている。 >どうして気づかないのか。 >あるいはどうして気づかないふりをしているのか。 >なにか理由があるはずだ。それはなんだろう?
登場人物たちにとって常に特別な場所が彼らの<外側に>あることをどうやって消化すればいいのかずっとわからなかった。 彼らにとって、客席とはなんなんだ?? ほんとに必要なのか? いらないんじゃないのか? いるとしても、もうちょっと、意味のある場所に作るべきじゃないのか?
それが・・・ あるとき、ふと思った。
外側にあることが重要なんだ・・・・・。
客席を配置することによって、彼らの世界は確実に外部を持つことが出来る。彼らが絶対に行くことのできない場所から、彼らが絶対に見ることの出来ないものを見、彼らが絶対に知り得ないできごとを知ることのできるひとたち。 始終物語の外側に陣取って、黙って座っているひとたち・・・・。 そのひとたちを配置することで、その場所からしか見えない風景が舞台の上にできあがる。 それは何? 演劇。 そのひとたちは、「演劇を」見に来るのだから、きっとそれが演劇だ。 ということは? <演劇>というのは、物語の中にはけっして存在しないはずの風景を創り出し、その中に彼らを置くための装置だ。 何かがそこに存在するためには、誰かがそれを見届けなければならない。 それを逆手に取った、粋な装置だ。 誰かが見届けることで、はじめて現れる風景がある。 その誰かを座らせるために、客席は必要なのだ。 物語の外側に必要なのだ。
そういうことにふと思い至った。
「作品は誰のためのものなのか?」 という議論をときどき聞く。 作り手のためのもの?それとも観客のためのもの? 古典的な創作論なのか。
「登場人物のためのもんでしょう。」と思っていた。 物語という世界の中で生きている<彼ら>のためのものでしょう、と思っていた。当事者は彼らだ。彼らからすれば、作り手だって観客だって同じように脇役だ。 今でもそう思う。 そして、とてもとても重要な脇役なのだと思う。
<満天の星空>も<お盆のような満月>も宇宙には無い。 そこから何億光年か離れた小さな場所で空を見上げる人間のところにある。 それを存在させるためには、宇宙の片隅に、客席と観客が必要なのだ。
「遠くから、あるいは外側から見ていることしかできない」と嘆くとき。 そこからどれほど重要なことが為し得るか、ということを考えるとくらくらする。<私>が<ここ>から見ていなければ存在しない風景、<あなた>が<そこ>から見ていなければ存在しない風景は、きっと、たくさん、たくさん、たくさん、あるはずなのだ。
いつも誰かが何かを待っている。 以前、プロデューサーの方に、「久野さんの永遠のテーマなんでしょうね。」 と言われて、「あら。ほんとに。」とはじめて思った。 自分でも気づかないうちに。 そんな物語ばかりたくさん、創ってしまっていた。
ひとが何かを「待つ」という行為に、私はとても惹かれる。 「待つ」という行為は実は相手に依る行為じゃない。 自分一人にのみ、依る行為だ。 相手がいなくても待つことはできるけれども、自分がいなければ待つことはできない。相手は私が待つことを止めることはできないし、私は誰かがたとえ全力で阻止しようと試みたとしても、勝手にひとりで待ち続けることができる。 待っていようがいまいが、来るものは来るし、来ないものは来ない。 誰かに伝えなければならないことでもないし。 誰かに何かを要求しなければならないことでもない。
待つという行為は、「今、必要な何がが起こっていない」ということを前提としている。さらに当人がそれを認めていることを前提としている。 そのうえで、「今ここで起こっていない」ということ以外何の手がかりもない、どこからどのようにしてやってくるのか見当もつかない未知の出来事の可能性を肯定するのだ・・・。現在を担保にして、過去と未来を全肯定するのだ。
なんて無防備な!なんて不合理な!そしてなんて創造的な!行為なんでしょう。 ・・・・と、思ってるのかいないのか、とにかく私の描く登場人物は、ときどき「何か」を待っている。待ち続けたまま一生が終わるかもしれないし、あきらめたあとに出会えることだってあるだろうし、思いも寄らない形過ぎて、出会えたことに気づかないことだってあるかもしれない。もう待たなくてもよくなった後で、それはふいに訪れるかもしれない。あるいはあくまでも最後まで訪れないかもしれない・・。
そういうこととは関係なく。彼らは待っている。 事情があるから待ている。待ちたいから待っている。 そんな彼らの状況にたまらなく、惹かれてしまうのはどうしてだろう。 自分でもよくわからない。
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待っている手紙がある。 いつか必ず届くのを、待っている手紙がある。 何故待ってるかというと、必ず送りますと言われたから待っている。
もう、忘れてるかもしれない。 そういう常套句だったのかもしれない。 途中でどうでもよくなったのかもしれない。
そんなのひどい、とか別に思わない。 忘れるときは忘れるし、言い訳するときはするだろう。 時間が経てば状況だって変わるだろう。
だけど待っている。 待ち始めてしまったら、止めるすべがわからないから待っている。 届いたらどんなにか嬉しいだろうかと思う。 それが届いたとき。私はきっと何かをすごく肯定することが出来るのだろうと思う。 だけど、届かなくてもやっぱり待ってるのだと思う。 (そもそも「届いたとき」はわかっても、「届かなかった時」がいつなのかを決めるのは難しい。)
待つべきかどうかということと、ほんとに届くのかどうかということの間には実はあんまり関係がない。 結局の所。待っていたいから待っている。待つことにしたから待っている。
そんなことを思うとき。 物語の中で「待っている」、彼らの気持ちがちょっとだけわかるのだ。
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