針の裏
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今月、ボルダリングを始めた。週2弱のペースでジムに行って登っている。 行く度に慣れていくのが楽しい。 壁に近づいていいのかな、から、徐々に堂々と近づいて登れるようになってきた。 その回にできなかった課題は、その次に必ずクリアできている。今日は更に、手を出すのはもう少し先だと思っていた課題まで登れちゃった♪ 友達はまだあまりいないけれど、できない課題にぶつかったらもっと話す機会も増えるでしょう。名前と顔が一致しているのはまだ2人だけ。でも、訊いたらみんな親切に教えてくれる。
今週はフットサルまでしちゃう。 私はこんなにアクティブだったかしら。 と思っていたら、好きな星占いで今週はこんなふうに出ていた。
▽ 視野が開けたような気がするかもしれません。 小さな窓から見ていたときには解らなかった道が 不意に見えてきて、そちらの方に 自然に、身体が動いていく感じがするのではないかと思います。
あたらしいもの、見慣れぬもの、 自分とは違うなと思えるもの。 そうしたものに不思議と心惹かれ それらに導かれるような気がするかもしれません。 慣れた場所からどんどん離れていくほど なぜか 「正しい方向に向かっている」 という感覚が湧いてくるのではないかと思います。 △
うん、そんなかんじ。 いいね。
ツイッターで、“政治的なことはあまり呟きたくないんだけど…” と呟いていた方がいた。 わかる。
私もツイッターをしているけれど、そもそもそのアカウントは、そういう主張をするためにつくったわけではない。概ねほわほわした日常を呟いている。 その中に政治的なつぶやきが混ざると、なんだかものすごく異物っぽく感じるのだ。 意識の持ち方ひとつかもしれないし、慣れやキャラというのもあるのかもしれない。でも、もっともっと根深いことのような気がする。
私の周りには、リアルでもネットでも、日常的な話と政治的な話を両方バランスよく話している or 書いている人がいないに等しい。ものすごく身近な人は別として、ほぼ必ずどちらかに極端に偏っている。 政治の話をしない側の人たちは、興味がないか語れない人が多い。(これは主にリアルでの印象) 政治の話をする側の人たちは、そればっかり。(主にネットでの印象) ネットで政治のことばかり話している人は、そういうことを表現する用にネットを使っている場合もあるだろう。だからそればかりになるのは当然のことかもしれない。 でも、ひとりの人が発信する内容として、日常的な話題と政治的な話題とが当たり前に、もっと気軽に混在しているのが普通だったらいいのに、と思うのだ。リアル・ネット関わらず。 この想いが、今日のこの文章を書く原動力でありこの文章の核。
そういう気持ちがあるのに、なぜ体現できないのかというと、また冒頭に戻ることになる。 日常的な話題の中では、政治的な話題は異物感を覚えるから。 他にも、 ◯フォロワーさんが不快に感じるかもしれない。 〜裏を返せば、自分のフォローしている相手が自分と違う政治的見解を呟いたら不快に感じることがあり得る。 ◯議論をふっかけられたり理不尽に感じられる反応があったりしたら嫌だ・こわい。 〜そもそも人を説得することが苦手。また、人を納得させられるだけのアウトプットできる知識は身につけていない。更に、もし正しい知識やデータを示せたとしても、通じない相手もいる。ネット上で文字のみで伝えるのも、ものすごい労力がかかる。
と、つまりはなんだか面倒なことになりかねない気がするから、ということなんだろう。 そういう感じにもやもやっと覆われている人が、案外多いんじゃないかな、と、ツイッターのつぶやきからふと浮かんだわけで。 政治的なことを何かふいっと言いたいな、と思っても、何故かそれをするにはある種の覚悟が必要になってしまうような空気を感じるのだ。私は。
なんでそんなにデリケートなものになっちゃったんだろう、政治的な話っていうのは。 政治って生活に密着しているもので、近かれ遠かれ私たちを取り巻く大きな流れをつくるもので、だから私たちはもっと興味をもっていいし、覚悟なんてなしにもっと気軽に語っていいものだと思うのに。
でも。
私の身近には、ものすごく勉強家で政治や経済に詳しい人がいる。 その人と話していると、勉強もろくにしていないのに、学んだ気になってわかったつもりでいる人の扱いづらさや面倒くささが見えてきてしまって、自分はそういう人間になりたくないから、相手を納得させられるだけのものが内にないうちは、政治的な話なんてしない方がいいのかも、と思ってしまうのだ。
取引先の相手と政治と野球の話はするな、って言われていた時代があったんだよね。 ひとつの主張が100%正しいなんていうことはあり得ない分野だから。
そういうものなんだろう。
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