針の裏
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とあるワークショップに行ってきた。 それは楽しくて良いもので得るものもあった、ということを前提にして、以下のことを感じた。
このくらいで通用するんだ このくらいで喜んで感心してもらえるんだ と思った。 私にもできる。
私は今まで(言葉通り、この文を書き始めるちょっと前まで)、自分でつくった作品をネットにあげて真似されたら嫌だな、と思って、ネットにあげることをしないできた。 なぜなら、自分と同じ分野の他の人の作品を見て、技術的にできると感じることが多くあったから。 だから、私のつくったものを見て、真似されることもあり得ると思った。
でも、私のつくったものを今までに見せたりあげたりした相手の反応や、今日のワークショップの参加者の様子を見て、立ち位置や感覚の違いを感じて少し戸惑った。 平たく言えば、自身が受け手であるか与え手であるかという部分。 私のやっていきたいことに関して与え手の意識を持った人は、周りにはあまりいない。みんな受け手だな、と。 それでもって、私はその受け手意識の人たちに混ざってわーきゃーするのは、ひっかかりを覚えるなと。 だって感覚でわかるもん。すごいねとかそうだったのかとか、受け手意識の人たちほど思わないからわーきゃーできない。 うん、いま思いっきり驕りを吐き出していますが。
だから、上を見ても横を見てもいっぱいいるけど、下を見てもたくさんいる。 それなら、真似されたら嫌だ云々で自分の表現を見せずにいるよりも、見せるプラスの方が大きいんじゃない?と気持ちのベクトルが方向を変えたんだよ。 ついったやら何やら、発信して反応をもらえるツールが腐るほどあるこの時代、表現している人間がそれを使わないとは…!という気になってきた。 安くなりそうで嫌だとも思っていたけれど、そういうツールで発信してプロやセミプロになってるっぽい人もいっぱいいるしな。 本当のプロにとっては苦々しい一面もあるんだけど。
覚えがある。 意識や技術が低すぎとか、裾野が広がりすぎとか。 で、いろんな分野で同じことが起きているから、無償でもいい人が現れて、そういうもんだと思われて、ある程度ちゃんとした人までとばっちりを受けたりして。ま、それは声の仕事の話。
書きたかったことを端的にいうと、発信、しよう。 ということでした。
この気づきがあったことが、今日いちばんの収穫だ。 これを得られたから、今日行って良かったな。
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