薔薇園コアラの秘密日記

2004年06月27日(日) 私の心の財産とは 

 大学を卒業するとき、年輩の方からいわれたことがある。

 「貴女はストレスが溜まったときに、自分なりの気分転換の術を持っている。それはやがて、貴女の心の財産になるでしょう」と。

 学生時代、私はストレスというものがどういうものか知らなかった。
 だって、毎日、楽しく元気に暮らしていたんだもん。
 多少の悩みぐらいはあったかも。コイとかヒラメ(?)とか。
 でも、悩みなんてとるに足らないものであって、精神的に負担になるストレスとは質が違ったはず。

 ストレスというものは、社会人になって初めて覚えた。
 本格的なのは、子供を産んでからかな。いわゆる育児ストレス。

 確かに、私はその都度、ストレスをためまくることなく切り抜けてきた。

 でもときどき、うまくいかないこともある。そのストレスの発散の仕方をちょっと忘れてしまうことがあるのだ。
 多分、今がちょうどそういう時期なのだと思う。

 昨日は運動会だった。
 今日は、ちょっと下半身に筋肉痛が残ったけど、それでも頑張って、お昼に一人でゴルフの打ちっぱなしと買い物に行ってきた。

 午後から、急いで夕食のカレーを作って、これから家族全員でミュージカル「キャッツ」を観にいく。

 そんなに忙しいならストレスを感じる暇もないでしょう・・・と思われるかもしれないけど、さにあらず。何だか慢性的に心に爆弾を抱えているのだ。

 それでも、私はやっぱり気分転換の術というものを身につけているらしい。

 今日、買い物先のショッピングセンターで、ドイツ語で声をかけられた。
 ドイツ人の集まりで知り合った女性だった。近いうちに、一緒にお茶を飲む約束をして手を振った。

 それまで八方塞に思えていた世界が、急に開けてきたようにかんじた。彼女と言葉を交わしたことで、共通の知り合いのことも思い出し、また連絡をとらなっきゃ・・・と思い始めた。そうしたら何だかうきうきしてきた。

 なぜだか知らないけど、今までの私、家にこもりがちで誰かに連絡をとってみようとすら思いつかなかったのだ。

 社交的な人が、ここんところ社交的じゃなくなかったからこんなにも息苦しかったのか。

 私の心の財産とは「社交性」なんだろうな。きっと。

 大切にしなっきゃ、私の心の財産。ずっとこれからもね。



2004年06月26日(土) 日本人男性にはできないこと

 今日は、ポーランド日本人会・ワルシャワ日本人学校共催の運動会でした。

 理人は白組、清二は赤組。白組の圧勝。
 ヨサコイソーランも他の競技もよく練習の成果が出ていました。

 ママも恥を偲んで、50m徒競走を走りました。
 みんなの背中を見ながらどしどし走りました。

 お昼休み。
 観覧席でお弁当を開き始めると、雨が降ってきたようだった。
 ただの通り雨。グラウンドを湿らしたのは、運良く休憩時間だけだったみたい。午後の競技には影響はなかった。

 ちょうど、雨足が一番強まったとき、一人の女性がグラウンドを横切って、早足にこちらに向かっているのが見えた。雨の中、当然、ずぶぬれである。

 すると、その彼女に向かって、傘を差して、慌てふためいて走り寄る男性がいた。彼女のご主人だった。ドイツ人男性である。

 彼は奥さんを傘の中に入れ、しっかり寄り添いながら、二人でこちらの観客席側に戻ってこられた。

 仲睦ましい、とても素敵な光景だった。

 私は箸を動かしながら、主人のドイツ時代からの同僚と、その一部始終を見ていた。

 二人の共通した意見。
「あぁいうことは、なかなか日本人の男性にはできない行為だね・・・」

 確かにねー。ドイツでは、日常的にごく自然に女性を大切にする習慣があるもん。ドイツのみならず欧米ではレディーファーストが徹底しているし。

 そういえば、私たちはそういう習慣の中で、長年暮らしていたんだった。私の主人も同僚も日頃からそういう光景を目の当たりにしてきたし、こちらの人の習慣を深く理解している。

 だからといって、その習慣が自分の身について、実際に日本人夫が日本人妻を相手に欧米人のように振舞えるかというと、全くそうでもない。

 そんなジレンマに、私は常にもどかしさを覚えて暮らしている。  
 
 *  *  *  *  *  *  *  * 

 はぁ。今日はもう、これ以上、日記かけないや。
 人生の不平不満がキーボードの先から炸裂しそうだから。

 何だか今日は、雨の中の素敵な二人にあてられちゃったかな。
 あ〜あ・・・。



2004年06月25日(金) 朝日新聞 船橋洋一氏のコラム

朝日新聞 日本@世界 船橋洋一
6月24日付「皇室は日本のソフトパワー」

 興味のある方は、上のリンクでコラム全文を読んでいただきたい。
 興味のない方には、以下、冒頭の序盤だけを紹介します。

 6/24付、朝日新聞本誌・オピニオン版 日本@世界 船橋洋一著

 小泉純一郎首相は、21日の党首討論会で皇太子殿下の「(雅子さまの)キャリアや人格を否定するような動き」発言に関連して、「(皇室の)公務がお忙しすぎる、まったく自由のない生活で、ご苦労が多いと同情申し上げている」と語った。

 今回、皇太子殿下と雅子妃が外遊を強く望んでいるのに、それがかなえられないことへのお二人の失望といら立ちが底流にあったと言われる。それが「世継ぎ」問題と絡んで、「皇室外交か世継ぎか」という二者択一の形で問題(も)提起された。

 ただ、宮内庁改革は必要としても、「公務」とはそもそも「忙しい」ものであろうし、「まったくの自由」を望むべきものでもないだろう。問われているのは、公務のあり方である。
(以下略)

 
 上の黒字はネットのコピペ。
 赤字で表現した部分が、本誌の引用。

 こうして比べてみると、本誌紙上とネット上では表現が全く違う。
 中盤にも再度ネット上で表現を変えてあるけれども、取るに足らないことなのでここでは無視する。

 私は、本誌紙上のコラムを先に読んだ。 
 
 「皇室外交か世継ぎか」という二者択一の形で問題が提起された。

 ええぇ?! ちょっと、まってよ。雅子妃を巡る問題は、決してそのような二者択一じゃないでしょ。いくらなんだって。

 日本を代表する主要紙に、上記のように断言するかのように書かれると、げんなりするなぁ。

 このコラム「皇室のソフトパワー」に対しては、私も同意するところもあったので、それを絡めたうえで、冒頭の導入部分の表記に対して、抗議のメールを送ろうかとまで思った。(いつもになく過激にリアクションを示してしまった)

 雅子妃に対しては、私も人並みに興味はある。

 公人であるが故、一挙手一投足、心の内側までマスコミの興味の対象になるのは仕方がないことだとは思う。私も固唾をのんで見守っている。

 ただ、最近の雅子妃を巡る報道は、憶測や推測だけが先行していて、事実とは異なるのではないか・・・と私は思っている。

 マスコミの報道は、他人の家を正面玄関から捉えて、推測だけでお家の事情を伝えている印象がある。

 当事者であれば、そんな興味本位の野次馬に、絶対に真実など垣間見せはしないだろう。

 ましてやベールに包まれた皇室である。

 これまでマスコミで報道されてきたストレスの原因も、数多くの要因の一つには違いない。

 でも、私はかねてから、雅子妃の昨今のお悩みは
「絶対にマスコミで漏らしてはいけない事柄や確執」が原因なのではないかと思っている。

 だから、今までにマスコミで報道された内容だけから推測して、本誌紙上で、「二者択一」ときっぱり断言するような短絡的な表記に対し、甚だ疑問を抱いた。
 
 この件に関して、私以外にも疑問に感ずる人がいて、メールや電話で抗議した人でもいたのだろうか。

 ネット上でコラムを再読すると、本文全体を通して違和感なく、ごく普通に読み流すことができるのだ。
 
 それにしても。
 今まで注意して読み比べたこともなかったけれど、本誌紙上とネット上では、表記や内容に、このような大きなニュアンスの違いがあるものなのだろうか?

 新聞というものは、印刷をして発行されてしまったら訂正は効かないものだからこわい。

 *  *  *  *  *  *  

 やっぱり言葉って、難しい。
 伝えたい心がキーボードの先からは伝わらないことがあるんだもん・・・。
 

  





2004年06月24日(木) 狼を退治?

 お昼に学校に立ち寄った。

 各教室に顔を出すと、子供たちが寄ってきて、
「あれぇ? おばちゃん、髪切ったの?」
と声をかけてきた。

 そうなの。先月ショートにしたんだけど、昨日はさらに襟足をきれいに刈上げにしたの。

「ね、短くしたら、かわいくなった?」
「え?! ・・・う、うん・・・」

と、子供に無理矢理同意を求めてしまった。
子供には、40歳のおばさん=かわいい・・・という概念はないのか、返答に困ったようだった。それもそうかもしれない。

 学校の先生からも、髪を切ったんですね、といわれたので、
「かわいいでしょ、私?」
ときいてみたら、さすが大人なので、
「うーん、返答に困りますね・・・」
といわれてしまった。

 そうか。自分が思っているほど、かわいくはないんだな、私。
 なんてこったい。とんだナルシストだ。がははは。

 最後に玄関横の低学年教室に顔を出した。
 校長先生も同席されて、にぎやかにお弁当交換会をしていたところだった。

 別のお母さんも来ておられた。
 ドイツ時代から使っている私の籐の買い物カゴを見て、にぎやかな声をあげた。

「わぁ、かわいいカゴ! それ持ってると、赤ずきんちゃんみたいよ〜」と。
すると、低学年の子供たちがお箸を持ったまま、いっせいにこちらを向いた。

 調子に乗った祐子サン、テンションが上がった。
「そうなのヨー、いまから、狼を退治しにいくの・・・」 
と、もうちょっとで胸を張っていい放ちそうになった。

 ちょっと、ちょっと。ナニ考えてるの、祐子サン。
 赤ずきんちゃんはそんなお話じゃなかったでしょう? 
 狼退治は、桃太郎。いやいやそれは、鬼退治か。
 一寸法師も狼じゃないし・・・。まぁいいや、どうだって。
  
 ホントは咽喉元まで出そうになっていたんだけど、校長先生や、まだ純真な低学年児がいる前で、ちょっとした自制心が働いた。
 実際に言わなくて本当によかった。ヘンなおばさんだと思われちゃう。

 よし、カワイく見られたいお母さんは、今後「赤ずきんちゃん」路線できめてみよう! 籐のカゴにおいしいごちそういっぱい入れて・・・。

 私、赤ずきんちゃんヨ・・・なんていっても、誰も返事してくれないかもしれない・・・。もう40だしな・・・。こわいだろうな・・・。ひひひ。



2004年06月23日(水) 植物の心

 我が家には、ベンジャミンの大鉢からポトスの小鉢まで観葉植物がたくさんある。去年の夏は、一時帰国だったので、留守の間、その家中の鉢を知人たちに預かってもらった。 
 
 少し前に株分けをしたばかりの、まだ葉の少ないサトイモ科の鉢は、息子たちのクラスメートのお母さんに託けた。

 私たちが帰ってくるまで、責任感の強い彼女は、預かった鉢を枯らしてはいけないからと、何かと愛情をかけて看てくれていたようだ。水は水道水で十分なのに、わざわざ飲料用の「エデン」の水を与えてくれていたという。

 お陰様で、日本から戻ってきたときには、一回り大きくなった元気な鉢たちと再会することができた。

 あれからまた一年経ち、葉数が増え植物の背丈も高くなり、家の中の緑がますますにぎやかになった。

 先々週、鉢をエデンの水で育ててくれた友達から電話があり、夏休み中に日本に完全帰国することになった、と知らされた。

 言葉を失うほどショックだった・・・。
 二人の子供たちがそれぞれ同級生で、私のゴルフ仲間でもあったので、突然の知らせに、親子共々動揺は隠し切れなかった。

 時を前後して、あんなにも元気だった例のサトイモ科の植物が、下のほうから急に葉が黄色く変色して枯れ始めた。

 物理的な生育条件が悪かったのかとも思ったけど、今まで全く元気だった鉢が突然弱り始めたのだ。株分けした株元のほうは、同じ条件下でますます元気に大きくなっている。

 私はふと思った。
 この鉢は、昨夏自分を看てくれた彼女たちファミリーがいなくなってしまうから、寂しくなって枯れ始めたのではないのだろうかと。

 実はあの時、この鉢を株分けしたばかりで、まだ根も新しい土に馴染んでいない危うい状態で、彼女に託けたのだった。

「もしかしたら、根付きが悪いとこのまま枯れてしまうかもしれないけど、そのときは、この植物の生命力の問題だから、枯れてもあまり気にしないでね」と伝えてあった。

 そういう生命力が不安定な状態であったから、彼女もいろいろな心遣いをして、その鉢を新しい家族の一員のように看てくれていたに違いない。

 植物を丹精して育てた経験がある人ならわかると思うけど、植物にもちゃんと心がある。この場合、魂と表現したほうがいいかもしれない。

 植物も育ててくれている人の心、愛情がわかるものなのだ。

 そうか。きっとこの鉢も、身を枯らして別れを悲しんでいるのだろう。
 うんうん、わかるよ、君の気持ち・・・。

 *  *  *  *  *  *  *  

 今回の現象を通して、生きものの魂みたいなものを改めて再確認させられたような気がする。

 これからも、水やりのときに植物たちに声掛けをして、心で声をきいてあげようと思った。

 我が家のリビングにはね、鉢の数だけ家族がいるみたいなんだよ。

 自己主張の強いのや、おとなしいのや。一つ一つ、個性があるの。 
 



2004年06月22日(火) 驚きの表現は「ヘェ〜」一回で!

 海外でも、JSTV(日本語衛星放送)で、毎週月曜日に「トリビアの泉」が放送される。私たちも「ヘェ〜」といいながら、家族全員で毎回楽しくみている。

 昨日は、子供たちに頼まれて、トリビアの種をネットで応募した。
 子供は単純だから、応募さえすれば、すぐに採用されると思っている。
 採用=賞金=お小遣い・・・だから、妙に張り切っている。
 ふっ、世の中はそんなに安易ではないんだけどね。

 このトリビアの泉の「ヘェ〜」も流行語となったせいか、ちまたでは、ちょっとした驚きを表すときにでも、「ヘェ、ヘェ、ヘェ〜」を連発する人が多くなったような気がする。
 
 流行語であるから、人様が口にするのに対しては、私はとやかくいうつもりはない。でも、我が家の子供たちがトリビアの泉のまねをしながら驚きを表すようであれば、私は口やかましく注意する。 

「ハイとヘェ〜」は1回だけでいいの!

 ハイと同様、ヘェを連呼されたら、何だかこちらが小ばかにされているような気がするのだ。いや、それはただこちらの感性が鬱屈しているだけかもしれないが。

 ただ、我が子たちに限っては、トリビアの真似事だけはして欲しくない。

 何十何ヘェで驚きを表現すると、笑いはあってもそこで会話が途切れる。頭ン中が番組を見ているとき同様、そのまま寡黙なテレビ視聴者になってしまうからだ。

 私としては、何か驚いた後に示す相手のリアクションがたまらなく好きなのだ。「ヘェ〜」の後に、息子たちも必ず自分の言葉や表情で子供らしい驚き具合を精一杯表現する。かわいいものなのだ。 
 
 そうすれば、自然に笑顔もこぼれるし、会話も流れる。

 喜怒哀楽の感情表現は、自分オリジナルであって欲しいと思う。

 

 



2004年06月21日(月) 深夜0時




「清二、ほら、まっすぐになって寝なさい・・・」



2004年06月20日(日) むちむち、ぷりぷり

 さくらんぼの季節到来。
 こちらのさくらんぼはむっちゃ安い。
 1キロ6ズオティ。ということは、いくらだ? 百数十円。

 毎日、1キロずつ買ってきてぺろりと食べています。
 さくらんぼをぱくぱく、ぺっぺ(種を出す音)、食べ続けるの。
 ♪やめられな〜い、とまらない〜、かっぱえびせん! ってなかんじ。
 
 うわ、今、恐ろしく古いCMソングご披露しちゃった? 
 私、日本を離れて長いから許してちょ・・・。
 若い人は知らなかったりして。ぐぐぐ。

 *  *  *  *  *  *  *  *  

 さてさて、今月はお誕生日を迎えた知人や友達がとても多かった。
 ふたご座の人たち。私は牡羊座O型。
 ふたご座のB型の人で、長い付き合いをしている人が多いみたい。
 星座血液型の相性は、特別どうってことはないみたいだけど、大学の仲間、会社の仲間、海外で一緒になった人が多いかも。
 
 先ほど、20年来の大学の仲間に「はっぴぃばぁすでぃ」のメールをした。毎年まめにしているわけではなく、3〜4年に一度、思い出した年だけの、ほんのきまぐれな連絡。しかも、先方の誕生日を正確には覚えていない。確か今日あたりなのだ。

 手紙や年賀状では滅多に返事もくれないのに、携帯メールだと速攻でレスがきた。レスがくるなんて期待もしていなかった。ただの腐れ縁の相手なのに、ちょっと照れてしまった。この私がだ。はははは。
 
 筆不精な彼からも携帯メールのレスがこうしてちゃんとくるということは、私たちが海外に出ている間に、人とのコミュニケーションの方法がすっかり変わったからなんだろうな、と思った。

 20年前の学生時代に、携帯電話やメールが普及していたら、何かと行動を供にする機会が多かった私たちの付き合い方も変わったであろう。

 手軽に連絡が取れる分、お互いのプライバシーがわかりすぎて怖いにちがいない。携帯だといろんな人から連絡が入るのが、隣にいたらばればれだもんね。

 お互い、パートナーにばれたら困るようなことをしてたのかぁ、オイオイ!
 
 二人の牽制の合言葉は、「ばらすぞ!」だったりして・・・。



2004年06月17日(木) 毎晩サッカー観戦〜EM2004〜

 先ほど、EMサッカー、クロアチア対フランス戦、始まりました。
 フランスチーム、全員丸坊主。
 ジダンをすぐに見分けられなくなってしまった。背番号10番なのね。

 今年は、主人が熱心にサッカーを見ているので、一緒にみている。
 予選からみると、力が入る。

 私たちが応援するのは、勿論ドイツ。その次ぐらいにフランスかな。
 まぁ、強いチームには自然と肩入れするだろうから、今後応援するチームは変わっていくだろう。

 ドイツチームは、みんな若い選手に世代交代してしまって、知っている選手はほとんどいない。カーンとシュナイダーぐらいか。

 次のドイツの試合は土曜の晩。楽しみだにゃ〜。

 *  *  *  *  *  *  *  *  

 昨日、ショパンの生家にいってきたと日記に書いた。
 その帰りのこと。すごく不思議な現象があった。

 ショパンの生家に行くには、ポズナン街道から普通の田舎道に入るんだけど、国道から田舎道に500mぐらい入った辻に、きれいな花が添えられたマリア様の像がある。あぁいうのを日本語で祠というのかな。

 そこでのこと。
 行きは何ともなかったんだけど、帰りにいきなり何かものすごいものを感じてしまった。いわゆる、磁場というものなのだろう。

 一緒に行った知人と普通に話をしながら車でそこを通り過ぎようとしたら、いきなり視界がぐにゃりと歪んだ。

 コンタクトの状態が悪くなったときや、目が乾いたときに視界が悪くなるけど、そういうのとは明らかには違う。きれいに見える視界がいびつに歪んだのだ。

 わたしはあせってしまった。同乗の知人をワルシャワまで無事送り届けないといけない。このまま運転できなくなったらどうしようかと。でもそう思った瞬間、すぐに視界は元に戻った。

 元に戻ってすぐに思いついたのは、たった今通り過ぎたマリア様の祠。
 何か特別な磁場が関係していたのではないだろうかと。

 最近、歳をとってから、人や物のエネルギーを強く感じるような体質になってきた。いやそれは以前から多少は持ち合わせていたけど、ポーランドに住むようになってから、宗教に関する磁場は特に強くわかるのだ。

 今までに私が最高に磁場を感じた場所は、クラクフのヨハネパウロ教会。
 ちょうど結婚式をしていたところだったんだけど、バリバリバリっと全身総鳥肌。神の見えざる何かを感じた。

 ふたつめは、ワルシャワの国立美術館のキリストの磔刑像が陳列してあるコーナー。あまりにも強い磁場で、私は近づくことができなかった。恐ろしくなって、そそくさと、後にした。

 そしてみっつめは、昨日のショパンの生家近郊のマリア様の祠。

 それ以外にも軽い磁場ぐらいは感じたことがあるけど、ここに書きとめるほどのものではない。

 私の実家は神社で、もともと神の霊には、身近なところで生まれ育った。
 大人になって、仏教徒の主人と結婚した。
 そして、キリスト教の国にトータル14年間住んでいる。文化習慣どっぷりキリスト教である。

 私の中には三つの宗教が交錯している。

 私は昔から宗教的な教育は受けていないけど、何となく、神様とか守護霊の存在は信じている。

 だから昨日、あの時磁場を感じた瞬時に
「私たちが無事ワルシャワまで帰り着くまでお守りください」
と念じた。

 そうして無事、ワルシャワに戻り、昼から市内でぷらぷら過ごした。

 私は思うに、神や仏の存在云々より、信じる心が大切なのだ。
 その信じる対象が、神のこともあるし、仏のこともあるし、自分の能力のこともある。

 改めて、信じる心をもちたいと思う。

 *  *  *  *  *  *  *

 おう、サッカー盛り上がってる。1:1
 それじゃ、また。



2004年06月16日(水) ショパンの生家

 今日、お友達と一緒にショパンの生家へいってきた。
 ワルシャワから車で一時間。静かな郊外であった。
 
 一応、そこは観光スポット。
 ポーランドを代表する作曲家・ショパンの生家であるから、ガイドブックにも載っている。大人や小学生の団体、何組かの日本人にもであった。
 
 お屋敷と手入れの行き届いた庭がある。
 でも、ただそれだけのことなのだ。

 思わず苦笑。

 前日に、一緒に行く友達と、
「私もまだいったことが無いから是非見にいきましょう!」 
とテンション高めに電話で話したんだけど、行ってみたらやや肩透かし。
 おまけにお庭の散策中に通り雨。

 お昼にはワルシャワに戻って、私が好きなオディンツァのカフェ・レストラン「Zielnik」でお昼ご飯を食べた。
 アスパラの前菜とほうれん草のパンケーキ。蜂蜜シロップがとてもおいしかった。お友達にも気に入ってもらえてよかった。

 それから、憲法広場の靴屋さんにふらりと入って、サンダルを衝動買い。
 旅行会社に寄って、リゾートのパンフをもらう。

 子供たちの帰宅直前に、ハハご帰館。
 今日はちょっとイレギュラーな一日でした。

 そして、明日は、子供たちの漢字検定。 
 今までに少しは勉強させたけど、詰めが甘そう。総復習をさせねば。

 明日大丈夫かな・・・。

 



2004年06月14日(月) 卵の命

 小学校高学年のころのお話。
 理科で、卵の孵化について勉強する授業があった。

 担任の先生が養鶏場から取り寄せた「有精卵」を、ふ卵器の中でひよこに孵るまでの過程を調べる授業だった。

 用意された30個ほどの卵は、お店で売っている卵とは違い、ひよこが生まれる卵ということで、小学生の私たちは、卵の殻を割って、お祭りで売っているような雛が出てくるのかと、毎日わくわくしながら大切に見守っていたものだった。

 ふ卵器に入れてしばらくしてから、1個の卵を取り出し、中身がどう変化しているか見てみた。赤い血管が生じ、卵から命が芽生えたことがわかった。

 もうしばらくしてから、また1つの卵を取り出し、調べてみた。
 前回よりも更に血管が増え、明らかに命が形作られている。
 私たちは、やがてはひよこになっていく命の過程を目の当たりにした。

 その次の解剖の授業くらいで、私は突然、怖くなった。

 理科の実験とはいえ、毎回、ひよこになりかけの卵を解剖して、ひよこの命を殺している。このまま解剖をせず残り全部をふ卵器に入れておけば、私たちが楽しみにしているように、ひよこがたくさん孵るかもしれないのだ。私たちは今、とても残酷なことをしているのではないか・・・と。

 授業中、卵の中身をのぞきこんでいるみんなの傍らで、私は突然、しくしく泣き出してしまった。担任の先生が私の様子に気づき、すぐに解剖を中断した。

 私は泣きじゃくりながら、
「これじゃぁ、殺されるひよこがあまりにもかわいそうだ・・・」
と先生に訴えた。

 するとまわりの女の子たちも次々と連鎖反応のように泣き出し、教室のみんながわんわん大泣きするという事態になってしまった。
 その日は、そうこうするうちそのまま授業は終ってしまった。

 次の理科の時間。
 担任の先生がいった。

「先日からふ卵器に入れていた卵を特殊な方法で見てみたら、残りのほとんどが「無精卵」ということがわかりました。だからこれ以上、卵をふ卵器に入れていても意味が無いので、この解剖の実験はこれで中断します。残りの卵は養鶏場にかえすことにします」

 確かに、今まで解剖した卵には、何の変化もない「無精卵」もあり、「有精卵」を探し当てるまで、次々割っていったこともあった。残りが無精卵だったといわれれば、単純な子供たちは信じるだろう。

 わたしは、教室でひよこが生まれないのは残念だったけど、あれ以上、ひよこの雛を残酷に殺さなくてもよくなったから、あぁ、よかった・・・と思ったものだった。
 
 そして、それ以降は別の実験の授業が始まったので、私は卵のことなどすっかり忘れ去ってしまった。

 残りは全て無精卵だったというのは、子供だましの嘘だったに違いない。

 担任の先生は、私をはじめ多感な子供たちの涙を前に、いろいろ考えるところがあったのだろう。授業とはいえ、殺生をしているのだ。卵の命、命の卵といえどもあなどれない。
 
 私のほうは、授業の教材にもかかわらず、ひよこかわいさだけの過剰な感情移入で取り乱してしまった。でも今思えば、担任の先生は、多感な私の感受性を真正面で受け止めて、ちゃんと理解してくれていたのだろう。

 今でも多感な私があるのはあの先生のお蔭。
 私を認めてくれた担任の先生には今でも感謝している。

 「卵の命」。今でも忘れられない小学校時代の小さなエピソードなのです。

 



2004年06月10日(木) 体外離脱

 私、体外離脱することがよくある。

 こんなことを書くと、またまた変人扱いされるかもしれないけど、本当のことだからどう思われたっていいのだ。私の身に起きることだから、これは決して宗教的、またはカルト的というわけはない。

 初めての体験は、二年前、書き物で徹夜をしたとき。
 ある日の未明、パソの前で突っ伏して寝てしまった。
 そのとき、その姿を左後ろから見ている私(幽体)がいた。
「あれま、祐子ったら寝ちゃダメじゃない……」と思った瞬間、その幽体が私の身体(本体)にすっと戻った。
 同時に突っ伏している私の上体が机にのめりこむぐらいに重く感じ、その後、めきめきと全身に神経が戻り、全身が覚醒したかのようにぱきっと目が覚めた。

 二回目も、徹夜したとき。
 ベッドで推敲をしようと思って横になったら、そのまま寝てしまった。
 ベッド脇に立って、寝ている私を見下ろしている私。
「あっちゃー、寝てしまってるわ。朝までもう時間が無いのに……」と思った瞬間、寝ている私に重なるように私が入ってきた。
 全身脱力状態の自覚があったけど、直後にぱきっ! と目覚めた。

 寝室の中空を、寝た状態でゆ〜らゆ〜らブランコに揺られるように飛んでいたこともあった。肩が引っ張られたり、足が引っ張られたり。
「うわ〜ひっぱられてる〜、何だこの感覚? なんか変!」と思った瞬間、脚のほうから本体に戻っていった。以降、熟睡。

 また、主人の魂が体外離脱して帰宅したのに気づいたこともある。
 去年の年末、主人が会社のクリスマスパーティで、会場近くのホテルで宿泊した。そこで寝ている主人の魂が体外離脱して、自宅に帰宅した。
 寝ている私に「ただいま〜」といって、寝室でスーツからパジャマに着替えて、リビングにビールを飲みに行った。あれは絶対夢でも現実でもない。

 体外離脱した自分の霊だけではなく、主人のものまで見えたということは、潜在意識内の夢状態と現実の間の世界が見えるようになったのであろう。

  *  *  *  *  *  *  *  

 他のケース。
 だれでも、ときどきボーっとするときがあるでしょう?
 何にも考えていない、無意識状態。
 そういう時って、霊魂が私の肉体から抜けてどこかに行ってるんじゃないかなと思うことがある。
 
 例えば。
 以前から、台所の入り口から、ときどきすっと出て行く「何か」を感じたことがある。この家の霊なのかな? とは思っていたんだけど、不思議と、ぞっとするような怖さは全く感じない。

 先日、私はボーっとしながら、洗い物をしていた。なーにも考えずに。
 するとまた、台所から「何か」が出て行くのを感じた。
 家には私一人しかいない。

 私はそのときふと思った。今出て行ったのは、自分の魂なんじゃないかと。「あーあ、台所仕事ヤダ。リビングでテレビでも見ていたーい」という思念が、そのまま魂となって私の身体から出て行ったんじゃないのかな・・・と。

 私ったら、起きているときにも体外離脱してるってこと? 

 今から思えば、「何か」が台所から出て行ったときは、毎回そう思ってた時だったよ。よっぽど私、台所仕事、いやなんだなぁ・・・と思ったら何だか笑えてきた。

 日常によくある「心ここにあらず」的、「何だかいっちゃってる」的状況というのも、ごく普通に霊魂がぶっ飛んだ状態なのかもしれない。私、想像力たくましから、思念とか霊魂がどこかに一人歩きしているのだろう。

 創作のときは、逆にそういう霊魂が私に宿ってなにがしかを書かせているのだと思う。きっと私は自分の霊魂とうまく付き合っているほうなのだろう。
 
 基本的に、起きているときには、私の意識は本体のほうにある。でも、その私の本体からいとも簡単に出入りする霊魂レベルの「何か」がいる。

 左脳的に現実社会でめまぐるしく生きている人は、「理性」の強い磁力で、常に肉体に霊魂を引き寄せている状態なのだろう。
 だから、きっと私みたいになることはないのだろうな。

 ははは。つまり私は、現実的な「理性」が欠如しているということかもしれないなぁ・・・。 

 



2004年06月06日(日) 二次創作の怖さ

 再び、佐世保の小6カッターナイフ殺人事件について。

 殺人の動機は、ネット上のトラブル。
 殺人のイメージは「バトルロワイアル」。

 本人も二次創作で「バトルロワイアル」をモデルにした自作小説を書いていたそうだ。登場人物に被害者の女の子の名前もあったという。

 最近、小説家を希望している子供・青少年がたくさんいるらしい。
 スポーツ、恋愛など学園青春物小説とか、二次創作といわれる小説、つまり人気のある漫画やアニメの登場人物を借りてきて自分のオリジナル小説を創りあげて書く。ひらたく言うと、「パクリ」のこと。

 今回、小説のアイデアの出所はさほど問題にしないことにする。
 ただ、創作をしているときの精神状態に注目しないといけない。

 私自身、たいした文章量も生み出していないけれど、日頃、地道に創作活動を続けている。日常をからめたフィクションも書く。現実がベースではあるけど、ときどき、どこからどこまでが虚構なのかわからなくなることがある。

 ただの記憶というのは漠然としたものであるから、いつのまにか薄れて忘れ去ってしまう。ところが、いったん文章にして書き留めておくと、そのシーンがいつでも鮮やかに蘇るようになる。

 それが日記であれ、フィクションであれ。鮮明にイメージが蘇るものだから、フィクションも現実にあったことのように思えてくる。

 私の場合、短編であれば、頭の中だけのでっち上げ話としてささっと書いてしまうことが多いけど、長編では、執筆期間も長期にわたるし、そのうち登場人物が自分の分身のように完全に独立してしまう。

 話の中でイメージが自由奔放に動き始めたら、そこで現実離れした新しい世界が確立する。人間の想像力というのは無限大であるから、例えばそこで誰かと激しい恋愛関係に陥ることも可能だし、想像を絶する残虐な殺人も可能である。

 たまに根を詰めて読んだり書いたりすると、そのイメージの虚構の世界から現実の世界へすぐに戻ってこられないことがある。
 創作活動の怖さでもある。

 実際、私はごく普通の主婦であるから、ごはんの催促コールや洗濯物の山、空っぽの冷蔵庫を前に、いつも現実社会のほうで途方に暮れてしまうのだ。
 
 小学生ならばどうか。子供のイメージ力はあなどれない。
 大人よりはるかに発想力、想像力がある。 
 
 「バトルロワイアル」のように、同世代がモデルの殺戮小説に熱中したら、どうなることだろう。ましてやいまの子供たちはゲーム世代で、バーチャルな想像の世界で生きている。

 現実との境目を見失うことなどいとも簡単であろう。

 加害者の女の子は初めから殺意を持って、後ろから首を切ったという。
 傷の深さは10cmにも及ぶといい、おふざけの真似事で怜美ちゃんを死に至らしめてしまったわけではない。
 
 そのとき、女の子は現実とは異次元の、虚構の世界の中で息づいて、完全に自分を見失っていたのだろうな・・・と思い知らされ、私は改めて胸を痛めた。

 若いうちから創作に携わるのならば、若い柔軟な頭で、想像力だけの世界と現実との切り替えをうまくコントロールできるようにしないといけない。

 それ以前に、子供たちには、残虐な映画やゲーム、猥褻画像など、幼いうちから有害な情報を決して目に触れることのないよう、今後大人は社会を挙げて十二分に配慮しなければならないだろう。

 



2004年06月02日(水) 小6の女の子たち

 長崎の小学校内でおぞましい殺人事件がおきてしまった。

 <うぜークラス つーか私のいるクラスうざってー>。
 <下品な愚民や>
 <喧嘩(けんか)売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレ(根性なし)や>
 <高慢でジコマン(自己満足)なデブス(デブでブス)や>
 (HPで書いている二次創作)<私は……殺し合い、なんて、人を奪うことは許されないので殺し合いなんてしません(何きれいごと吐いてるんだ)>

 上記は小6の加害者の女の子がHP上で書いていた言葉の一部。
毎日新聞のニュースで紹介されていたので、引用した。

 世の中の人間全てにいらついているようなセリフ、今時の小学校6年生はこのように日常的に表現してしまうのだろうか。・・・いや普通はしないだろう。

 この子はストレスを抱えている。
 そのストレスが極限にきたときに、何かが狂ってしまった。

 この事件では、「命の大切さ」云々よりも、小学生が親友に対して殺意を抱くまでの動機というか子供たちの背景が注目を浴びそうだ。

 事件を起こすような子は、親の目、先生の目からみて、全く問題の無い子のように見えるという。この事件でも「普通の家庭で育ったごく普通の女の子」という報道があった。

 大人目に見ていい子に振舞うことができる子供というのは、幼少期の反抗期に十分な反抗をして、感情の発散をしてこなかった子達なのではないかと思う。

 そういうケースは、大概、親が異常に厳しすぎて、反抗的な態度をとることすら許されない家庭環境だったことが多い。大概、無理していいこ風に振舞うものだ。

 幼児期にまわりの人間関係を通していろんな感情が芽生えはじめ、発育に伴い様々な感情の分化が見られる。2、3歳頃の反抗期を通して、その感情の処理方法、発散方法をひとりで学ぶものなのだ。

 その反抗期の芽を親が摘んでしまったら、地震のエネルギーが極限まで蓄積するかのように、やがて大きくなってから取り返しのつかない形で心の歪みが爆発する。今回は殺傷という形でカミングアウトした。

 自分たちのHPの内容も興味深い。
 人前でいいこ風に振舞っていても、HPではついつい本音、本性が出てしまう。大人なら分別を持って、書き控えたりはするけど、小学生は明らかに子供なのだ。感情の赴くまま、なんでもかんでもストレートに吐露していたに違いない。潜在的に抱えていたストレスを全て文字にしたりするのだろう。

 小学校の高学年にもなると、かなり的確に自分の内面を表現できるものだ。できるゆえ、冒頭の書き込みを目にして、私はひどく胸が傷む思いをした。あれは、心の上っ面を書いた言葉遊びなどではない。
(引用だけでわかりにくいかもしれないけど)

 今後、いろんな情報が飛び交うだろう。ここで書いたことはほんの側面的な内容で、正しくないかもしれない。

 私は少なからずも、デリケートな年齢の女の子がチャット上で何の良心の呵責を感じることもなく感情の分水嶺を越えほどまでの発言を書いてしまうような日本の世の中を憂いている。どうなってしまったのだ、ニッポン。

 海外でわが子供たちはのびのび成長している。

 小さい社会ながらも、それでも友達間でいやなことがあったり、けんかのひとつもして、悩んだりすることもあるようだ。これも成長に必要な試練なのである。

 私は子供たちの心の窓口となって、時には耳を傾けて学校の様子や友達のことをきくよう心がけている。大概は自分で処理できるようなことではあるけれど、ケースによっては、微力ながらも大人が介入したほうがよいこともある。

 この長崎の事件をきっかけに、もっともっと子供とコミュニケーションをとって、子供の心の中をすぐにでも見られる関係を作っておきたいと思った。

 なんといったって、この事件は子供たちの年齢にとても近いのだ。
 他人事では済まされないと思う。
 子供と一緒にこの事件についてはしっかり話し合いたいなと思っている。


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祐子 [MAIL]

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