度々旅
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2004年02月26日(木)

 最近、日記の題名を決めてない。それから、写真もとってない。せめてHPのトップページの写真を変えようと思い、実家周辺をうろつくも、犬ばっかりとってしまうよ。けれど、犬は、あたしとはあまり仲良くないので、かわいい顔をしてくれない。名前を呼んでもあまり反応がないので、土手でよく遊んでいる犬の名前を言う。「○○ちゃん来たよ!」の声で、犬は、耳をヒピクッと立て、周囲を見回す。目をまん丸にしてその犬を探す。愛い奴。けれど、その手もだんだんばれてきたので、あまり反応しなくなった。牛乳という言葉にも反応しなくなった。こうしてこいつは、あたしに騙されてくれなくなっていくのだ。
 


2004年02月24日(火)

 最近の私は、料理に夢中な気がする。といっても、特別難しいものを作っているわけではなく、時間をかけているわけでもない。ただ、いつもは作らないようなものを作っているだけだ。昨日はカキフライとおからのイタリア風だんご。何がイタリア風って、ただバジルが入ってるってだけだ。おかずが5品以上最近はある。家庭を持っている方にしてみれば当たり前なのかもしれないけれど、一人暮らしのあたしにとっては、すごいことなのだ。
 なんでそうなのかはよくわからない。ただ、勝手に理由づけすれば、ちゃぶ台を賑やかにしたいってことなのかもしれない。この理由づけ作業や、意味づけ作業ってのは、あたしたちの生活には欠かせない。そもそも、人間だからこそある思考だ。神話も、そういう思考作業の積み重ねの上に生まれたものだと思う。この間読んだ本に、人間の脳には神話をつくりだす構造がもともとあるということが書いてあった。ネアンデルタール人の頃からそれはあるという。
 祖父がどうしてあの日に亡くなったのか。母と私はいろいろ理由づけ、意味づけしている。神話的思考ってのは身近にあるものだ。その意味づけから生まれてくるものは、ただ私たちを安心させ、納得させるだけの効果なのか。心理的なものだけなのか。そう言い切ってしまうのは、ちょいと寂しいな。
 ちょっと、頭の中がバラバラちんで、何書きたいんだか、何を書いているんだかわからないけれど、そんな日もあるさとお許しを。


2004年02月23日(月)

 もう、、、春ですか?なんですかこの暖かさは。この風の強さはなんですか。。。天気が良いのでお布団を干すも、すごい風で飛ばされた。昨日は調子にのって、布団カバーやらシーツやら、その他たまっていた洗濯物を、ベランダいっぱいに干したら、にわか雨が何度も降るし。。。
 風がビュービューすごいのは楽しいのだけれど、ぽかぽかしているのも気持ちいのだけれど、ああ、もう春が来てしまうのかと憂鬱な気持ちになる。なんだろう、もう春ってだけで条件反射的に、憂鬱になる。
 昼ごろ院生仲間と長電話。死ぬのって、理不尽だと話し合う。これからたくさんの大好きな人を見送っていかなければならないなんて、それを考えただけで生きていくのが嫌になる。かといって、自分が先にってのもまだ早いわけでと、二人でぐだぐだ話し合い、とりあえず研究頑張ろうって話で落ち着いた。そうなのだ、やっぱり今まで通り目の前だけ見て、歩けばいいのだ。そして、持続すればいいのだ。先のことなど知らない。知らなくてもいい。目の前のことに体ごとぶつかってけばいいや。時には、追われたりしながら。そうでなければ、いろんな恐怖と不安で、ずぶずぶ泥の中に埋まって、どこにもいけないまま、沈んでいくだけだ。
 ということで、あたしはこれから夕飯の準備。その後、ヒンディー語の勉強。テキスト読みは、明日から違う論文に突入。ほんと、ゆっくりだけれど、目の前のことを必死にこなしていれば、振り返ると塵も積もれば状態だ。いや、塵でないことを願っているのですが。


2004年02月21日(土)

 なんとか起きて、残っていたヒンディー語の予習をするも、寒くて布団に戻る。ああ、眠い。昨日もおとといも、実家で昼寝してしまった。ああ、昼寝なんてしている場合ではないのに、ぐーと寝てた。いつもならば、母親に起こされるのだけれど、疲れがたまっているんだろうとほっといてくれた。自分ではそんなに疲れているつもりはないのだけれど、疲れているらしい。
 ヒンディー語があるからと、昨日の夜アパートに帰ってきた。なのに、どうしても起きれなくて、体がお布団から抜け出せなくて、休んじまった。。おじいちゃんの葬式で休むと伝えてと友人に言う。今まで、おじいちゃんを使ったことはなかったので、最初で最後の嘘に使わせてくれとわけのわからないことを言って、そのまま布団と一体化。
 そんなわけで、一日中ずっと寝てた。これでもかというくらい寝た。久しぶりに、無駄に寝た。次から次に夢を見て、その夢がこれまた楽しくて、楽しくて。
 自己嫌悪にも陥ったのだけれど、そういう時もあるのだと自分を慰める。
 最近、夜はなんだかわけのわからなう不安と恐怖が押し寄せてきて、嫌だ。けれど、太陽がある時間の眠りはそんなことを考えずに、ぬくぬくふあふあと眠ることができる。
 昔みたく、夜中にドンキホーテに行ったり、漫画買ったり、ビデオ選んだりして、ラーメン屋に並んで、帰ってきてゲームをしたりして、朝までだらだら楽しく起きていたりしてみたいと夜になって騒いでいる私。そんなあたしのために、友人がゲームを買いに行った。ありがてう。たくさんたくさんありがてう。


2004年02月19日(木)

 一応、毎日午前中にはテキスト読みを開始し、昼すぎまでには予定をこなすようになったけれど、そこからがいけない。散歩に行こうか、お仕事しようか、ヒンディー語やろうかと思っている間に、ワイドショー見て、ドラマ再放送時間に突入。あああ。ダメだぁぁぁ。
 午後から友人が遊びにきた。甘酒って、牛乳でのばすと、ホワイトチョコレートみたいで美味しい。それを、ガブガブ二人で飲む。3月に予定されている呑み会に向けて、痩せないとまずいのではないかと話し合う。学部時代の写真を取り出してみた。ああああ。二人とも愕然とした。互いが、太りつつあることは互いに気づいていた。時々会っては、「あれ、ちょっと太った?」なんて言ってみたりしていたけれど、それが積もり積もれば、確実に「デブになったね。」って状態なわけで。その集大成を3月にはサークルで一緒だった友人たちに見せることになるわけで。
 お金をかけてためこんだ贅肉だけれど、真剣に捨てることを考えねばならんなぁと、二人でゴロゴロ天井見上げてた。


2004年02月17日(火)

 なんだか、やることは沢山あるのに、何から始めてよいかわからず、ボケーと過ごす。旅に行くために冷蔵庫の中身は空っぽにしていたので、昨日は食料を買いにとりあえず買い物へ。てくてく歩く。暖かい。梅の蕾がふくらんでいるどころではなく、咲いていた。いつも行く雑貨屋で、祖父のために水とお茶の入れ物を買った。ついでに小皿も買った。ちょっとママゴト気分だ。ふらふら店内を見ていたら、あれま、かわいらしいお洋服。買っちまった。あたしと好みの合う店員が奥から持ってきてくれた服にも一目ぼれして買っちまった。そちらは母へのプレゼント。この店員、危険すぎる。好みが合いすぎる。以前も買うつもりがなかったのに、店員がどこからか持ってきたものに一目ぼれして買ってしまった。店員が持ってこなければ、気付かなかったものを。。。というか、貴方が着てる服いつも欲しくなる。やっぱり、売り子が売り物を着ているって、購買増進に貢献してるんだ。
 帰ってきてからも、相変わらず何もやる気がしないので、料理をする。こういうときは、料理だけはがんばってみる。カボチャをもらったので、丸ごとグラタンにした。鳥のモモ肉が安かったので、から揚げもつくった。小松菜と油揚げと納豆を和えたら美味しかった。あとは、文春、新潮を読んでごろごろ。何から始めてよいかわからないときのあたしのパターンだ。
 けれど今日は、なんとか午前中からテキスト読みを再開。午後は散歩。楳図かずおの漫画を見つけたので、友人に買う。タイキャンセルのお詫びにあげよう。
 さて今日は切干大根を作って、あとは塩サバをいじくってみよう。そういや、プランタの水菜はいない間に新しい芽が出ていた。前のヤツらは寒さに負けて全滅してた。さて、これから元気に育つのでしょうか。。。


2004年02月16日(月)

 とりあえず、アパートに戻ってまいりました。先週は、本当に天気がよい日が続き気持ちがよかったです。寂しくなった実家に、以前よりは帰らねばなと思っております。今年は論文だけだから、完全に帰ろうかなとも思いましたが、指導教授も復活することだし、授業も結局はとるし、その他いろいろ思うところがありやめました。
 母は、祖母と祖父あわせて10年間介護してました。だから、介護が終わったらあれしよう、これしようと言ってはおりましたが、やっぱり何をしてよいかわからない日が当分続きそうです。なにせ、10年。。。長すぎる。母は、父方の祖母からは望まれずに嫁入りしました。結納の席でも、祖母は一口も膳に口をつけず、途中で帰っていったそうです。どうやら、祖母は父に結婚させたい人がいたそうな。そんな中嫁いだ母は、ずっとのけ者扱いでした。祖母は何かと伯母と母を比べ、老後も娘に見てもらうと言っていたようです。私自身は感じませんでしたが、ご近所では息子がかわいいが孫はかわいくないと言っていたそうな。ま、私のことですな。
 けれど、伯母が旦那様と死別し、その後人の旦那様と再婚。その人が破産。叔父は、その保証人になっておりました。その叔父も、再婚で前妻には何度も子供をおろさせ、その間も他の女性と付き合い、その人を父に紹介するような人でした。子供をおろす度に、祖母は叔父のもとに駆けつけていたそうです。破産のとき、結局力を貸したのは、父と母でした。夜逃げしてきた伯母家族を囲い、弁護士も私の友人のお父様にたのみ、自殺しようと逃げた伯母の旦那様を探し出したのも父と母でした。その頃、すでに祖母は呆け始めていたのですが、母に「これからは仲良くしましょうね」と手紙をくれたそうです。
 そんな祖母の葬儀で、母も私も相変わらず除け者にされてました。同居していたにも関わらず。だから、今回、当たり前のことかもしれないけれど、母が遺影、私が骨を持って帰ってこれたことはとても嬉しいことでした。父が兄弟に気を使い、遺影を母に持たせるということをなかなか言い出さなかったので、私は父に最後はみんなのことがわからなくなった祖父が、母のことだけはわかっていた。だから、持たせて欲しいと頼んだ結果のことでした。父も、そのつもりではあったのでしょうが、なかなか言い出せなかったのです。叔父からは、以前葬儀の席のことで、喪主の妻や娘が喪主の横に来るのは田舎のやり方だ。そんなこと気にしているなんて頭がおかしいと母に言いました。伯母家族が破産したときも、祖母が入院したときも一円もお金を出さず、すべて口だけでした。挙句の果てに、保証人にならなければならなかったのは、私の両親のせいだと言い出す始末でした。
 私は生まれてからずっと何も祝ってもらえず、初めて祝いということを叔父からしてもらったのが、進学校の中学に入ったときです。そういう物差しでしか人を見れないなんて、本当にかわいそうな人だなと思うことで、自分を納得させていました。正月に来たときに、殆ど相手にされないのも、そう思って過ごしていました。自分で、何かを言えるようになったのは、ここ最近のことです。
 どうして、こんな人に母も私も除け者にされ、母はずっと黙っていられたのだろうと。祖母にもひどい仕打ちをうけながら、祖母を最後までどうして母はみることができたのだろう。ずっと思っていました。「大切な人の大切な人だから」母は、それだけで今まで30年間耐えてきていたのです。
 そんな全てのことが、やっと終わった気がします。悔いなく送り出せたと言った母。そして、なんでも祖父と一緒に行った私。大学に入り一人暮らししてからも、祖父の実家へ行き、このアパートに来てもらったり、桜の季節に大学を案内したり。家族で出かけるのも、必ず祖父も必ず一緒でした。母も私も、辛いことはたくさんあったけれど、祖父との思い出はたくさんすぎるほどあります。母は、父の兄弟に感謝されるためにやったのではなく、自分が満足するため、悔いないための介護でした。だから、何も言ってもらえなくてもしょうがないと思ってます。私も母も、悔いなく、たくさんの思い出を持っているので、幸せだと思います。もちろん、父も。
 人に理解してもらえるのは、支えられ、助けられているという気持ちになれるようです。後悔ないというのは、幸せな気持ちになれるようです。 
 
 ここ、数日だいぶ旅から離れた日記を書いて申し訳ありませんでした。テーマは違いすぎるし、恨みみたいなものが、どうしても抜け出せない文章になっていて、人を不快にさせているのではないかと不安でした。けれど、皆様からお気遣いいただき、私の日記から、何かを思って文章も書いてくださった方もおりました。ありがとうございます。これで、今回のことは終わりにしたいと思います。
 あ、でもまだ思い出が時々出てきてしまうと思います。それは、ご了承ください。


2004年02月13日(金)

 祖父のことで、いろいろな方からお言葉を掛けて戴きました。この場を借りまして、改めて御礼致します。ありがとうございました。葬儀、告別式と終わり、しっかりと見送ることができました。祖父は、89歳で、今年の夏には90歳を迎えるはずでした。もう、15年以上前から、「じいちゃんは、もうすぐ死ぬんだからな」と言っておりましたが、入院しても元気に戻ってきてくれていて、こうやって100歳越えるんではないかと思っていました。なんだかんだ言っても、私の子供を見れるまで生きていてくれるのではないかと思っておりました。去年の脳梗塞から、だいぶ壊れてしまって、歩くこともできず、私のことをわかってくれたのも、本当に数回でしたが、それでも、自分で食事をとり、もりもり食べていたこともあり、本当にこのまま生きていてくれると思ってました。だから、なんでこのタイミング?というかんじなのです。まだ、いてくれても良かったんじゃないの?どうして今いなくなるのさと。
 けれど、インドに行ったときに、インドの家族から腕に巻いてもらってずっとつけていた紐が、私が祖父に最後に会った日に切れたことを思い出しました。そして、ある意味、すごい計算してこの日を選んで祖父は亡くなってしまったんではないか?と思えることに気付きました。友引や、寺の関係で、葬儀の日まで日があり、施設から自宅に帰ってきて3泊することができました。ずっと祖父は家に帰ってきたかったのです。また、本来ならば、私はタイに行っていたわけで、裏を返せばまるまる予定が空いていたわけです。葬儀を手伝ってくれた私の友人は、祖父に会ったことがあり、彼とタイにも行くはずでした。その彼は、日曜日に出勤しており、会社帰りに家に帰ってきてくれたばかりの祖父に会いにきてくれました。もし出勤してなかったら、彼はわざわざ会いに来てくれるような人ではありません。そして、タイに行くために会社を休む予定でしたから、会社を休んで葬儀も手伝ってもらえました。最後に驚いたのは、祖父の戒名に、その友人の一文字が入っていたことです。祖父の名前からとった一文字の上に。私にとって一番大切な人が祖父でした。だから、祖父は新しい名前の中に友人の一文字を入れることによって、今度はこの友人を大切にするよう教えてくれたような気がしました。その他にも、アメリカに住んでいるいとこがずっと子供に恵まれなかったのが昨年生まれ、もう一人にいとこも結婚する相手とめぐり合うことができ、私と両親の仲もだいぶ良くなり安定してきていました。
 そんなこんなで、安心して出発してくれたのかもしれないと思います。
 祖父の骨は骨壷に入りきらない程の量で、棺おけに入れるときも苦労しました。89歳にしては、身長は高く、骨もとてもしっかりと太いものでした。それらはすべて、父や母の看護のおかげで本当に感謝してます。
 葬儀には、父の会社の人がお断りしたにも関わらず大勢かけつけてくれ、母の友人も大勢来てくれ、両親がどれだけ多くの人に助けられ、そして愛されているかを知ることができ誇りに思うことできました。祖父のためにあれだけ大勢の人が泣いてくれて本当にありがとうという気持ちでいっぱいでした。父の姉が最後に母に正座して「長いことありがとうございました」と言ってくださり、今まで本当に母は感謝の言葉をもらえずにいたので、私は嬉しかったです。施設に祖父が入ってからも、母は毎日犬と一緒に施設に通い、祖父だけに声を掛けるのでは、他の方が良い気持ちをしないと、みんなに声を掛け、名前を呼び会話してました。普通できることではないなと思います。だから、後日施設に伺ったときに、老人から祖父はどうした?と聞かれ、こうやって入れ替わり激しい施設で痴呆老人から祖父が心配してもらえるのは、全て母、そして父の祖父への周囲への配慮のおかげだなと思いました。
 葬儀に来てくださった方々から、母はよくやったよ、悔いはないはずだよと言葉を掛けていただき、本当に私はこの母、そして父の下で生まれ育ったことを誇りに思います。
 これからも、祖父と行ったことがある場所、一緒に食べた物、いろいろなことによって祖父を思い出すと思います。どこかへ行ったときに土産を選べないこと、クリスマスや誕生日、バレンタインにあげる相手がいないこと。そういうことで、寂しくなります。一番大切な人を失うというのは、悲しいというより、寂しいのだ、横にいない、気にする相手がいないってのはこんなに寂しいことなのだと痛感です。けれど、まだ祖父に出された課題はたくさんあるということも思い出し、頑張ろうと思ってます。
 そういえば、祖父が骨になって帰ってきたとき、犬が出迎え、祖父を抱えている私に一番最初にとびつきました。ちなみに、犬と私は不仲で、あれだけ大勢の中でいろんな人のところをうろうろして私のところにやってきたことに驚きました。祖父は呆けてからも犬のおかげで散歩できていました。犬は後ろを振り返りながら祖父の歩調に合わせて歩き、ちゃんと連れ帰ってくるのです。そして、土手では大勢の方がそんな祖父に声を掛けてくれていました。○○君のおじいちゃんと。祖父が知らない人から写真をもらったと祖父と犬の写真を持ち帰ってきたことがあります。土手で祖父のことを見守ってくださっていた方です。その方とは、縁があり、今ではとても親しくしてますが、その写真がその方がとってくれたことを葬儀の場で知りました。そして、その方が祖父が旅立つときの浴衣を縫ってくれました。
 そうやって、いろいろな人に生かされ、助けられ人間は生きていくことを学びました。祖父が残してくれたものは、とても大きいです。
 長くなりましたが、皆様、お気遣いしていただき、ありがとうございました。


2004年02月08日(日)

 昨日、珍しい程酔った。2軒目は行かず帰宅。電車の中でオヤジのようにつり革につかまってた。座れたので、寝てしまったら降りるべき駅は越えていた。しょうがないので、タクシー。。。。どうしてこんなに酔ったんだろうと思いながら、寝る。
 朝、母からの電話。「おじいちゃん危ないから」。準備をしながら、昨年のときよりもずっと冷静な私。準備をして、家を出たところで再び母からの電話。「ダメだった。」
 私は、おじいちゃんと仲良しだった。とっても仲良しだった。実家に帰ると、祖父は施設から戻ってきていた。初めに、母にはありがとうと言った。私が、家を出て勉強していられるのは、おじいちゃんが生きていたお陰である。けれど、そのおじいちゃんの面倒を最も見ていたのは母だ。だから、ありがとうと素直に伝えた。そんな中も親戚の子供が、あまりにもうるさくて私は怒ってしまった。
 おじいちゃんの顔を見れるか不安だったのだけれど、お別れをしようと思ったら、寝てた。いや、いつもどおりの寝顔だった。昔、昼寝をしているおじいちゃんが、いびきも呼吸も聞こえなくて、「おい!生きてるか?」とよく声をかけた。おじいちゃんは、「ウガアァウ、なんだぁ?生きてるぞ」とびっくりして声をあげた。なんだか、その時と変わらない顔だった。
 おじいちゃんと二人きりになったときに、いろいろ話した。あと、ひ孫見せれなくてごめんよとだけ言った。おでこをベシッと叩いたら、また「ウガガオ」と起きてくれそうだった。
 親は葬儀の打ち合わせで、気付けば私しか近所の人の応対をできる人間がいなかった。私はこの家の孫であり子供なんだと当たり前のことを痛感した。もう家から離れて6年たつが、私はまだこの家の人間なんだと思った。ご近所の人は、誰もが母によくやったと声をかけていた。父の弟が一言も言わない言葉をみんな母に言っていた。父の弟は、人の借金の保証人になっても一円もお金を出さないような人間のくせに、こういうある意味イベントみたいなときだけしゃしゃり出てくる。
 彼は先週、祖父をやはり施設で歩かせたらしい。それを、先週はゲンキだった俺が立たせたら歩いたとなんだか、自慢げにさも俺はおじいちゃんを見てたというような言い方をしたので私は腹がたった。そのせいで、翌日自分で立ち上がって転んだと私は言ってやった。彼は無言になった。月に一度しか来ないような人間は、何もわからない。私だって、祖父に対して自分でいろいろしてあげたいことはあったが、私は持続して看病できる環境ではないので、余計なことはしなかった。ただ、母から状況を聞き、祖父と母がするように戯れるだけだった。
 その叔父が、昼過ぎに今度は祖父の横で酒を呑むという。酒好きのおじいちゃんのために。その気持ちは私もわかる。けれど、それは夜すればいい。まだお客さまが来る時間だ。それを、祖父の横でおでんをつつきながら酒を呑むと言い出す。私はぶちぎれた。申し訳ないが、父にぶちぎれた。酒を呑みたい、祖父との最後の時を楽しみたいという気持ちはわかる。けれど、祖父の葬儀までまだ日があるのだから、夜、一晩中祖父と呑み語ればよいではないか。それを、まだ祖父に会いに来てくれる人が入れ替わり立ち代りの状態で、それはないだろうと。そんなに祖父と語りたいと思っていたならば、生きているうちにやれと私はどなった。まだ生きて家にいた頃に遊びに来ても1時間くらいで帰り、それも年にたった1.2回。それを、死んでからさも俺は親父を思っているというような態度は私には許せなかった。大好きな祖父だけに、許せなかった。正月などに、嵐のように帰っていく叔父家族を見て、祖父が「みんな帰ってさびしいなぁ」と言っている姿を見ていただけに許せなかった。結局、叔父がなぜそんなことを言い出したのかは、自分が夕方には帰るためだった。自分が帰るために、人のことなどおかまいなしに、そういうことをしようとしたのだ。祖父のためではなく、自分のためなのだ。すべて。彼はそれを何もわかっていない。もちろん、介護も供養もどこかしら、当人よりも周囲の自己満足的なものであることは私もわかる。けれど、それが人を不快にさせたりするのはどうだろうか。自分の子供が人の死の場でありながら騒いでいる。そういう子供を怒ることもできないのだから、しょうがないかとも思うが。
 祖父のことが私はとても大切だ。こんな場でこんなことを書くのはおかしいかもしれないけれど、どうしても私には許せなかったのだ。
 夕方、私の友人が会社帰りに寄ってくれた。まだ祖父が元気な頃に会ったことがあったのだ。葬儀の受付もやってくれるという。とても嬉しかった。昔から、私はこのおじいちゃんが死ぬ時、私はどうするのだろうと思っていた。現実になってみたら、涙は止まらないけれど、悲しいけれど、ちゃんとお別れできそうだ。といっても、寝顔そのものなので、これからもずっと一緒に仲良しでいると思う。おじいちゃんのくれたちゃぶ台を大切にしながら。そして、大切な人とこのちゃぶ台を囲み続けたい。


2004年02月05日(木) 持続

 来年も自分の学年が一人として欠けず、院に残ることが判明。良いのだか悪いのだかわからないけれど、別れの寂しさを味あわずにすむのは嬉しい。結局うちの学年で論文を提出したのは一人。その彼も、迷っていたけれどドクターを受けて晴れて合格。2年で修士修了して博士にすすめるなんて異例のこと。すごい。そして、その姿に力をもらった気がする。その彼は、社会に出てもバリバリやっていけるタイプで、うちの研究科では珍しいタイプだ。遊びも勉強もすべてこなす。いつも見習いたいものだと思う。けれど、あたしの場合は諦め癖があるので、やる前にきっとダメだろうなぁと思ってしまう。だから、彼が2年で修士修了して博士合格という報告を聞いて、やっぱり諦めていたら何も始まらないわけで、諦める前に頑張ろうと改めて思った。
 先日、私は諦め癖があってダメなのですよ、すごい人っているんだなぁというのを中高で思い知らされて、それからずっとダメなんですよってことを教授と話した。けれど、諦めてばかりいても始まらないので、最近はバカはバカなりに頑張ろうという気になりましたよってことを言ったら、笑いながら良かったねと言われた。歩かなければ前に進まないわけで、とりあえずは歩くこうというかんじだ。いつも、最初全速力で走って、途中歩いてしまって、歩く自分に苛立って止まってしまう。持続が大事なのに、毎日やろうと思ったことが、一日でも出来ないと、あああもうダメだぁとやめてしまう。これがいけないんだ。一日やめても、また次の日やればいい。やめてしまうことが一番いけないんだ。今更ながら思った。なんだか、そう考えるようになってから、とても精神的に安定していて、振り返ってみると、知らない間にテキストがだいぶ読み進められていたりする。本当、今更ですが、今年のテーマは持続だわ。
 こんなかんじで気分がよいものだから、いつもは行かない遠くの学会まで行ってしまおうかしらんと。宿を借りるために知り合いに電話したら了承してくれた。ありがたい。誰かの姿を見て勇気づけられたり、時には直接手を差し伸べてもらったり。相変わらず、いろんな人に生かされているなと思う。


2004年02月04日(水)

 久しぶりに思い出した。女は結局子宮で生きているのよと母に言われたことを。いろんな意味でそうだと、納得してます。


2004年02月02日(月)

 なんだか、先週、先々週とうって変わって、さぼりモード。だらだらモードです。いかんいかん。せっかく作ったペースをバイト終了とともに失っては。
 明日で、短期バイトは終了。学生のテストやらレポート、出席チェックの仕事だったのですが、教授によるのかもしれないけれど、あんな大量のレポートを先生はちゃんと読んでいるのね。。。レポートや、テストに、「先生は僕の唯一神です」とか、「先生だけがたのみの綱です。単位ください。」ひどいのは、「Aをください。」と書いてあったりして、最初は笑って読んでいたのだけれど、途中から腹立ってきたのでありました。こりゃ、気分によって落としたくなるな。。。なんて。あと、テキストを写したり、自分の意見ではないのはすぐわかるなぁと。私でもわかるようになっているのだから、毎年何百枚というレポートを見ている先生は、すぐに見抜いておりました。さすが。学生さん、自力で頑張りましょう。ダメなときは、面白いことをなんとか頭をひねって書きましょう。ってかんじだ。
 理系の学生のレポートだったのだけれど、文系と違って素直だなというのももう一つの感想でありました。
 実家の祖父は、お人形みたいです。車イスをかろうじて、足でこぎながら移動してます。その姿がゼンマイがついたお人形みたいです。時々感情が顔に出ることもあって、そういうときは嬉しい。けれど、昨日月に一回くらいしかこない父の弟がどうやら施設に会いに来て、私の父や母とは違う接し方を何かしらしたらしく、帰った後興奮状態で、自分で立ち上がって倒れたそうだ。
 自分の親だから、会いに来るなとは言わないけれど、勝手なことをされるのは困るなと。いくら呆けているとはいえ、不安などの感情はあるわけで、たまに来る人が勝手なことをすると、不安定になって、その分普段見ている人間は困るわけで。この叔父は外面がよいは、学歴で人を見るは、金に執着しているは、気遣い思いやりがないは、「ありがとう」の一言が言えないはなので、大嫌いなのだ。だから、来ないで欲しいってのが本音なのだけれどさ。。。


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