猫頭の毒読書日記
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加藤徹の「西太后」をよんで、
外戚の専横を防ぐため、皇帝の生母を処刑する慣例が北魏(386〜534)にあった(!)というのが、へぇ〜そうだったのか、ですが、 清においては、美女を后にしない制度(??)で、 一定の官位以上の父をもつ女子が面接試験で選ばれるということになっていたという。
清代ともなると、非常に過去の歴史研究がなされていて、 王朝支配も考えられていたんだな… 一つの王朝の平均寿命は二百数十年という経験則で、西太后は清王朝の寿命のつきるころに登場… 死ぬまで失脚しなかった…
27歳で垂簾聴政をはじめた西太后の権力欲の女性性、そして その後の中国政治の手法への巨大な影響力…
⇒大衆狂乱(マス・ヒステリア)を利用して独裁を確立するやり方 ⇒軍閥政治、 ⇒カリスマ的指導者が、実力的指導者に権力が集中しないように失脚させてから復権調整するやり方
和魂洋才の逆とは、「中体西用」 香港租借を決めた「たったの九十九年くらい貸してやってもよいではないか」という言葉…
関係者も死に絶えたところで、(^_^;; 一昔前の間違った俗説を引きずらず、これから研究されねばならない人なのだという
西太后―大清帝国最後の光芒
「みどり」というのを再確認すると、 和語のみどりは色の名前じゃないのだそうだ。 中国人の豊かな色彩感覚はみどり色を表すにも 緑、翠、碧…とあるのに比べて、日本人には緑色を表す言葉はなかった 今は緑という中国語に引きづられているが、 本来の「みどり」というのは「みどりご」という言葉に残っているような さわった感じであった…という
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