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自分探求とは、傍目でみれば滑稽なことなんだけど、探し求めて突き詰めたその果ての表現方法のひとつに、小説は位置づけられていると思う。 そして自分の弱点を寄せ集めて出来上がる感性こそ芸術に繋がる気がしてならない。
創作とはそんな自分の内面を人にさらす作業であり、その勇気が自信に変わった時、強さの意味を知るのではないだろうか。己を知る人ほど強い人間はいない。
小説を軸に例にしてみたのだけど、強さとは何かを考えた。 究極を言えば弱さを許容できることだと私は思うのだ。
人間とはある地点で容易く壊れてしまう軟弱な生き物だけど、そう簡単には死んでしまわないしぶとい生命力も持ち合わせている。 ぎりぎりの時に、青息吐息に消えかねない命の炎をどこまで燃やし続けられるか。その瞬間、人の持つ強靭さがわかる。どんなにぶざまであっても、情けなくとも、生命力の続く限り人は生きなければならなくて、生きる意志を持って歩んでいる。
たとえ思う通りにいかないと嘆き、はかどらない人生の路で地団駄を踏み、追い越されていく友を見送っては、側に寄り添う理解者を突き放し生きたのだとしても。 悲観すらよりつかない自分の全てを、素直に受け入れられて同化できたなら、きっと魂は強くあるだろう。
信じられるために出会うのではなく、信じるために今はある。想いは成就するためにそこにあるのだから。 人の存在は限りなく儚い。しかし限りなく尊い可能性と出会いに満ちあふれている。
弱さに惑わされ、なおたくましく生きようともがく人に、時に私は自分の奇異ぶりは棚にあげてエールを贈りたい気持ちが沸き起こる。
半分は自分に言い聞かせるように。 そのままでいい。ただ受け入れさえすればいいと念じて。遠い幸を祈った。
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やっと三十代という年を考えられるようになってきたと思う。
二十代の頃もそうだったが、新たな代に突入してだいぶたってからでないとその年の重みというものが私は体に馴染んでこない。
三十という区切りを人生の折り返しと唱える人もいれば、やっと一人前とみなす人もいる。その人が何をしてきたかによってその基準は決まるのだろう。 私と言えば、大人になることに抵抗しているような感情に見舞われては、そんな自分に呆然とする日々。二十代の最初の頃はこんな私でもちやほやもされ、それなりに持ち上げられる扱いに喜ぶ日もあった。すべてが若さゆえではないだろうが、困難の多くを若さのなせる技で乗り切った。 若さが至上とする錯覚は、きっと誰の批判うんぬんではなく私自身の中で罠のように潜んでいるのだろう。 思い描いていた成功の錦絵をいまだ表現しきれていない焦りに責められては、おぼつかない自分に劣等感が蝕んでくる。 あるいは人は、実年齢を自分にとり込めた時、紛れもないリアルタイムな現実の存在を自覚するのかもしれない。
こんな文章ばかり書いていると悲観に暮れる三十路を思わせてしまうが、基準はやはり自分のものさしを間違わずに持っているしかなくて、今は嘆いてかまけている場合ではない。
社会に出た時を一つの基準とするなら、世の中の許す現役な時代はまだ三分の一程度を過ぎたに過ぎない。順当にいけばあと今までの三倍以上は現役でいられるわけだ。 そんな風に考えると人生はとても長い。やり残したことをやり遂げる時間が、まだ私には相当分残っているともいえる。 でも今までと同じ密度をあと三倍こなさなければならないのかと思うと、実はそれだけでうんざりで、正直もうもたないだろうと、いっぱいいっぱいにもなってくるのだけど。
そんな微妙な揺れに動じながら、私の三十代は暮れていくのだろう。
紆余曲折しながらも、遠周りをしながらも、立ち止まりながらも、胸を張って次の代も迎えうけられる自分でいようと思う。 決して自信を失わないように、すべてを受け入れていけるように、信じ続けていられるように。
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フィル/ フロム・ジ・イノセント・ラブレター
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