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[フィルクリエイティヴ]掌編創作物
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創作物:海岸線の空の向こう
薄曇りの、まだ半袖では肌寒い朝に、楠子は海岸線に向かう列車に飛び乗った。
出かけに鞄をひっくり返して、いつもの道具は投げ出した。英会話のCDも、販促雑誌も、予定のつまったスケジュール帳も全て放りなげてきた。
空の鞄がさみしくて、ほこりだらけになっていた海の写真集だけを詰め込む。表紙の世界はすべてが青く輝いていて、まぶしい。
自分のいる場所の薄暗さを対比するように、罪人のような気分になってくる。コンクリートの街並みは人の心を蝕んでいく。
昨日まで躍起になっていたはずの経験に重ねたキャリアも、苦労して築いた信頼も、やりかけのプランも、すべてが色褪せていた。楠子にとってはもう意味のない荷物でしかない。
『海だけを見て生きていきたい』
子供の頃の願いだった。
三十三になるその年まで、夢には程遠い雑居ビルの谷間でうずくまって働いている。明日退職願いを書けばそれも終わる。
ローカル列車と路線バスを乗り継いだ先は、灰色に暮れていた。梅雨の走りのその日は、かろうじて雨には免れていた程度の天候で、気を抜いたら今にも雫を落としそうな雲が空を占領している。その厚い層に阻まれて、陽射しはしばらく顔を出しそうにない。それでも潮の香りもさざ波の音も、濁った空など意にかえさないようにそこが海であると五感に教えてくれていた。
影をつくらない空の下にいる時、人は追われる時間から解放される。
その場所にたたずんでどのくらいの時間がたったのだろう。ぬれた頬を雨のせいにできるまで、楠子は海岸線を眺めていた。
体を温めたくて入った店は、シーズンオフの海の家のような蕎麦屋だった。客のいない店内には奥で笑う子供の声が響いて、そこが平日の昼であることを印象づけている。こんな時間に子供の声を身近に感じたのは、何年ぶりになるのだろう。同級生たちは既に二人目の子供まで生んでいる者までいるのに、楠子はすっかり彼女らとは遠のいてしまっていたことに気付く。もう、そんな年だった。
「おじいちゃん、明日使う物を買ってもらったのよ」
ワンピースを着た女の子が嬉しそうに白い買い物袋をぶら下げて現れた。中にはキャラクターの絵柄が描かれた雑多な商品がひしめいている。
「どうら、見せてごらん。加奈はくまが好きだもんなぁ。いやぁ沢山買ってもらったな。これで明日の誕生日は大成功だなぁ」
女の子は得意げに笑っておじいちゃんの手にすがって甘えている。
「何歳になるんですか?」
「すんませんお客さん。お騒がせしちゃいましたね。これでやっと五歳なんですよ。かわいくてしょうがない年頃ですわ」
「加奈ちゃん、私にも買ってもらったものを見せてくれる?」
「いいよ。花組のみんなはキティちゃんとか好きなんだけど、加奈はね、このくまさんが好きなの」
袋から出てきた中身は少し茶色味の濃いくまの絵が素朴に描かれている紙コップや紙皿だった。
「去年、娘が孫を連れてこっちに戻ってきましてね。新しい幼稚園で友だちが6人も7人もできたって喜んどるんですわ。誕生日には皆呼ぼうってはりきって、店の食器を使わせるのも味気ないし、奮発して買い込んできましてねぇ」
「……」
楠子は黙り込んだまま、しばらく言葉が出せなかった。
「お客さん?ちょっと騒ぎ過ぎて気分を害しちまいましたかねぇ。すんません」
「……、いえ。違うんです。それに驚いてしまって」
加奈が嬉しそうに手にとっている品は何年か前に楠子が手掛けて製品化したものだった。当時、上司の反対を押し切って発売させた結果、大きな成功も修められず廃番になったそれだ。
「うちの会社の商品なんです。昔私がつくったものなんですけど、あまり評判が良くなくてすぐに発売中止になったから今もお店で売っているなんて思いもよらなくて」
「加奈、このくまをつくったのは、このおねぇちゃんなんだってさぁ」
老店主はパッと顔を明るくさせて嬉しそうに語った。
「ホントォ?くまさんのお母さんってこと?」
「はは、お母さんではないけど。そうねぇ、パン屋さんみたいなものよ。どらえもんパンや、うさこちゃんパンをつくっているように、紙コップをつくっているのよ」
「ふうーん。じゃぁジャムおねぇさんだ。 おねぇさん、ありがとう」
加奈は無邪気に笑って言う。
「加奈にも、おねぇちゃんのご本を見せて」
写真集を指差している。
「遠い外国の海の写真よ」
「おねぇちゃんもお誕生日なの?」
加奈はさりげなくページに挟まっていたカードをみつけて言った。
「やだ、こんなところに入れたまま忘れていたのね」
-----お誕生日おめでとう 意欲と 想いを
沢山に詰め込んだ君に-----
入社間もない頃に会社から送られてきたバースデーカードだった。メッセージは上司が書いたものだ。
「これはずっと前にもらったものなのよ」
加奈はもう鮮やかな海岸写真に見入っている。
「この人に私はいつもはむかってばかりいた。よく怒られたし、よく泣いて、よく言い争った。でも、尊敬していた人。その人が、明日会社からいなくなる。
私、何をこれからしていけばいいのかわからなくなって仕事している意味を感じられなくなって、こんな平日に会社さぼって海を見にきて……」
楠子は独り言のようにつぶやいた。
「ねぇ、お客さん。
人は人に伝えられて成り立っていくもんじゃないですかねぇ。私のつくった蕎麦をお客さんが召し上がってくれる。お客さんがつくったという紙コップをうちの孫が友だちをよんで使う。目上の人間が目下の人間にものを教える。目下の人間は受け継いで繋いでいく。そうやって、人は連なっていくんですよねぇ。私の想いはきっと子供や孫たちが継いでくれるだろうし、お客さんは、その上司さんの想いを受け継いで、まわりまわってここに辿りついているんじゃないですかねぇ」
「わからなくなった時はありがてぇって思っていると、きっとその先が見えてきますよ」
老店主は柔らかく楠子に微笑みを返す。
「おねぇちゃん、ご本ありがとう。おじいちゃん、加奈、ゆきちゃんのお家に行ってくるね」
「ああ、遅くならずに帰っておいで」
「ピピピピッ」
その時、楠子の携帯が鳴った。
「愚痴っている間に呼び出しみたい。感傷に浸っている場合ではなさそう。ふふっ」
外はあんなに重くのしかかっていた雲が、徐々に溶けて明るくなっていた。もう少しで陽もさしてくるだろう。楠子の心も、晴れていた。
「ありがとう。ご主人のお蕎麦おいしかったわ」
「こちらこそ、孫を喜ばしてくれてありがとうございます」
「お誕生日おめでとうと、加奈ちゃんに伝えてください。
それから、おねぇちゃんのカップを選んでくれて嬉しかったとも」
楠子は足取り軽く、引き戸の外に出た。潮風が髪をゆらして磯の香りを運んでくる。陽の光りが水面を照らす瞬間が見たくて、浜辺にもう一度足を向けた。
明日はきっと、同じヒールでアスファルトを踏み締めているのだろう。そして一言伝えよう。
『ありがとう』とすべてに。
END
2003.7.4
* * * * *
[後書き]
久しぶりに更新できた創作は、先日、退任していった上司に贈った物語です。
「エピソードも登場人物もフィクションですが、想いはノンフィクション」
私の創作の原点にある言葉を添えて贈れました。
しばらく心に溜まるだけに過ぎていた言葉をつなぎ合わせることのできた印象深い作品です。
読んで下さりありがとうございます。
収納場所:2003年07月06日(日)