独白2
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2001年10月29日(月) 昔日記

今日はテストでしたよー。正に「レ・ミゼラブル」!!
このままでいいのかと自問しつつ帰ってきたら日記を書く始末。
学習能力がありませんねー。
てかはやく書かないと母が帰ってきてしまいますよ。
いない方が落ち着きます。

だったらゆっくり風呂になんか浸かってないでさっさと書けばいいのにねえ。
お風呂で考え事好きです。ゆっくり何にも考えないで浸かってるのも好きです。
いつから好きになったのかなあ?
昔はお風呂あんまり好きじゃなかった気がする。

そういや今日モスでお昼heisiと食べてたらいっぱい中学生っぽいこがいました。
なんでこんな時間にいるのかなあと思ったらうちの妹は別の日だったけど普通は文化祭の代休の日なんだと思いました。
私はもう自分の中学の文化祭なんて覚えてないよ。
こういうのは思い出になってもいいはずなのに。

つーことで本日のお題は『思い出』です。

今日はずいぶん前置きが長くなってしまいました。
なんなんだかなあ。

で、思い出。
私はネットに載せる日記を書き始める前から小学生の時とか中学ん時とか日記かいてたんですよね。
なんで書き始めたのかはもう忘れてしまったけど、気づいたときには「忘れたくない」って思って書いてました。
その時からもう「日常は忘れるもの」とおもってたのかなあ?気味の悪い子供だ。

思い出ってのは基本的にホントに些細な日常のことは指さないんだと思います。
特別楽しかったもの、つらかったもの。
しかもそれは時が経つにつれてどんどん美化されていってる気がする。
つらかったことも、その時の心情は時が経つにつれて曖昧な物になってきてるから他人にいったり、「今はいい思い出だよ」とか言えたりするんですね。
でも本当に大切なことは忘れてしまうのが不思議だ。
思い出せなくて寂しいと思うぐらいならまだいい。
でも忘れたことすら忘れてしまうこともある。
美化された物だけを後生大事に「思い出は大切だ」なんていってるなんて滑稽ですよね。
てか私だけかもしれませんけど。私は人一倍物忘れが激しい。

そして思い出の中の人。ホントに美化されすぎ。
これは「冷静と情熱のあいだ」を読んで思ったんですけど。
他人に期待するのはいつもやっていることだけど、思い出の中の人に大きな期待をして、会ってみたら幻滅する。ホントに滑稽。
「忘れられない人がいる」
ずっと思っている訳じゃなく、時が経つにつれて忘れている間にその人は記憶の中で再構築されていく。
「忘れられない人」はいつしか別な物に成り代わっていくんですよね。
勝手に期待して勝手に幻滅。
思い出の中の人とは会わない方がいいんです。
でもまあ私にはまだ思い出になってしまう人はいませんけど。
ただ死人は思い出にならざるをえない。もう会うこともないし、会えることもない。
死人にも期待するから人間の希望的観測とは凄い物ですね。「あの人が生きていれば…」
とかいったりしてね。
期待もするし、忘れもする。思い出の中に生き続けるとは何という滑稽な言葉なんだろうと思う。記憶の中の死人はもうその人では無いのに。

なんだかんだと言い訳しているけれども私は要するに自分にも忘れてはならない物がある、本当に大切にしていた物を忘れると言うのは酷いことだ。
そういう感覚があるのだと思う。
こんな所で「思い出とは忘れる物だ」とか「忘れるのはは仕方ない」とか言いつつも私は2年前に死んでしまった犬(私の周りではこれしか死に事がない。)に忘れてしまった言い訳をしているだけだ。
実際のところ私が彼女に対して、愛情を持って接していたのはほんの僅かな時間だけだった。私は彼女が死んでからとてもそれを後悔した。そして彼女が死んだとき泣いた。
でも私は今彼女のことはほとんど思い出すことも無く、今いるサスケ(犬)に彼女にはむけられなかったほどのかわいがりようを見せている。(当時の私には彼女をかわいがるほどの余裕はなかった。)思い出すとしても私の記憶の中で再構築された物でそれは彼女ではない。

それを悪くない、仕方ないといっているのにこんなに罪悪感を感じるのはなんでか。
それは私も世間の人もそういう風に建前ばかりの綺麗事を教えられて育ってきたからだ。
認めなくてはならないことも、認めたくないと思う。
でも認めないとやっていけないことも既に解っている。
彼女が死んだとき、私が泣いたのは自分のためだし、(病気の彼女に延命を行って苦しそうにしていたのを憐れんでたりもした。)彼女がいなくなっても私は普通にたまにしか彼女を思い出さずにきちんと生きている。
そうなると解っているのにどうして私たちはそうやって建前を教えて育てていくんだろう。それに気づかなければ良かったと思うときもあるけれど、妙に納得してるのも確かだ。
要は自分がいかに綺麗な物かという風に見せるための自己満足に過ぎないんだなあと思った。

今日昼間にこの日記ホントにどうでもいいことを書いてしまったので載せるのやめようかと思ったんですけどなんか結局のせちゃいました。
日々どうでも良くなるここの日記。そろそろマンガ描きたいなあ…。


2001年10月27日(土) 昔日記

最近よく寝すぎるか寝なさすぎるかのどっちかを繰り返しています。
なんつー日々。無駄の多い日々ですね。
で、今日は休みなんでまだわりと頭のすっきりしている昼間のうちに日記を。
隣で母がサスケの(犬)毛を刈っています。
美容院がお休みだったとか。

時はとても素晴らしく平等に流れていきます。
私はこんな所で日記なんか書いていていいのか。
つーか生きてていいのか。

で、本日のお題は『生きている意味』です。

良い前置きが思い浮かびませんでした。ダメじゃん〜!
今日は母親と進路の話をしていたんですが、どうも私は生きる意志っつーかが足りないのが全面にでているらしく、母はキレた。

「あんたじゃあなんのために生きてるの!アンタ生きてても意味無いじゃない!アンタが生きてて役に立ってるの!?」

何のために生きてるかなんて解りません。
でも他人の役に立っていない人間は存在している時点でいないと思います。
例えば私はこんなにもいい加減で頭が悪くても、クラスの人に迷惑も掛けるでしょうが安心も与えるわけです。
「ああ、私の下にもこんなに頭が悪いやつがいる」
と言う感じ。
存在しているだけで他人の役に立っていないと言うことは無いんだと思います。
でも、それは直接「生きる意味」に繋がるわけではない。
息をしているからと言ってその人の存在に特別な意味が生まれるわけないのと同じに、人が必ずしていることには特別な意味が生まれるわけでは無いんだと思います。

なら生きている意味はどこで生まれるのか。

『自分の感情』
これは誰もが持っていて、誰とも全く同じモノはない。
これがきちんとあって、表に出せて、他の人に現すことができたら、生きる意味に繋がるかもしれない。
何か『自分の感情』で、どうしてもやりたいことができたら生きる意味に繋がるかもしれない。
でも私にはやりたいモノができるほど『自分の感情』がきちんと成立してない。あやふやな靄みたいなモノでしかない。
好き。嫌い。そんな簡単なモノしか判断する事のできないモノだ。
これをしたい、するべきだ。そういうものができるほどできあがっていない。

宗教というのは正にこのことかもしれないと思った。
自分だけの崇めるべきモノがいて、それに従う。=自分だけの感情があって、それに従う。
だったら私はどこかの宗教に入るべきなのかもしれない。
でもそれができないのは、今ある宗教は私の感情にあっていない。
小野不由美の「屍鬼」のように、自分のなかで絶対であるべき神が欲しい、でもそれは現存する宗教にはない。

誰かに導かれて、許されて生きていくことはとても簡単だ。
そして、その絶対であるものが私を導いてくれている時点で生きている意味ができる。
私の中で絶対な物が私の存在を認めてくれるだけで意味ができるんです。
ただそれは同じ「人間」であってはならない。
なぜなら人は「許す」ことも「導く」こともできるけれども、そこに無条件の、本当に自分の利益に繋がる物が無いと言うことがないから。
自分だけの絶対の物=自分の感情だった場合、自分を許す物は自分だから罪悪感はない。
でも自分を許す物がたにんであった場合、許されることで「許させている」と感じるかもしれないし、他人にとって自分は不可欠要素だから許していると無言の重圧を感じるかもじれない。

許し、認めるだけの存在が生きる意味をくれる。でもそこに感情があってはならないから「人間」では成り立たない。
そしてせの役割をしてくれるのが「神様」というもので、神様というのは要するに『自分の感情』なのだと思った。
現存する他人の感情である宗教に従うつもりが無いのなら「自分の感情」を確固とした物にするしかないのだと思う。

昔の人はこんなこと考え無かったのかもしれない。
生きることに精一杯の時代には。
でも今のこの時代は簡単に何も無くても生きることができる。
考える余裕があるから精一杯生きる前にぐだぐだ言っているのかもしれない。
生きている意味を問いただす時点で生きている意味をもう持てないのかもしれないと思った。

なんだか今日はとっても文がおかしい。
頭はハッキリしていたのに頭が悪いからきちんとした物になりません。
矛盾いっぱい。頭悪い。
でもぼーっと考えるより文と言う形にしたほうが自分的にまとまります。
何度も形にしながら書いていけば確固とした物になるのでしょうか。


2001年10月24日(水) 昔日記

尽きちゃいました。もう…せっかく更新したのにこんなに嬉しくないってどうなんでしょう。いつものことですが。
やっぱりカラーってのは時間かけてるんだからできあがりはうまくいってて欲しいですね。なのに。
毎度のことながら気に入りませんよ。大体時間かかったって言っても自分が悪いんですけどね。
だってとっても私は飽きっぽいんですもの。
ものすごい飽きっぽさでもって手塗りでやったためにさらに時間がかかってしまいました。ダメだー。少しやってはやめて、少しやってはやめての繰り返しです。
飽きっぽいっていうことは本当に怠惰だ。

つーことで本日のお題は『飽きること』です。

私はとっても飽きっぽいってのは上で言った通りなんですけどね、集中力が極端に無いんですが。
いっつも少しやっては〜の繰り返し。
しかも飽きっぽいだけでなく諦めもものすごく早いんです。
そんな私が友達に言われたこと。

「カイヅさんすっごい飽きっぽいのにオタクだけはずっと長持ちなんだね。」

結構ショックでした。オタク長持ち…??

オタクっつーかマンガ描くことはホントに飽きない訳では無いですよ。
実際私はあんなきったないtop絵一枚塗るだけでもあんなに時間かかっているのは何もとろくさいだけでは無いんです。
色塗りなんていう単調な作業は同じことの繰り返しで飽きやすいくせに手で塗るというのは緊張することです。
だから急激な眠気におそわれたりして進まないんです。
マンガにしてもそう。マンガ描きたい描きたいといっていても私はいつも飽き飽きしながら描いています。

飽きないのは「マンガを描くこと」では無く、「自己を主張すること」な訳です。
これは飽きたら話しにならないどころか存在できませんよ。
生きることに飽きる日は来るかもしれない。
でも生きている限り私は自己主張をする事を飽きる日は来ないでしょう。
諦める日は来てもね。
勉強は違った。飽きた。
大切だと思っていたものがふと、どうでも良くなる。
それが飽きることなんですよね。
そしてとっても怖いものです。

今まで好きで好きでめんどくさいことやっていたのにも関わらずふっとどうでも良くなるって言うのはどうしてなんだろう。

それが物に対してならまだいい。
それが人に向けられたときが一番怖い。
自分は今までこの人が好きで、一緒にいて、困らせるようなことをされてもカワイイといえる。
そんなところから「飽きる」となんでいままでこんなめんどくさいことしていたんだろう。になる。
よく子供とかに向けられる感情だ。

私がこの飽きるというのを怖いというのは自分が呆れられたり飽きられたりするような人間だと解っているからかもしれない。
自分の分身である作品が単調でつまらなく飽き飽きされるかもしれないような物であることが解っているからかもしれない。
だからそんなことが無いように、飽き飽きするような作業の繰り返しでもマンガを描いたり絵を描いたりをそれなりにがんばってする。
凝り固まって同じような解答しか出せない頭をフルに使って飽きられないような解答を出し続けるようにがんばっている。

でも何より怖いのは自分がこれらのことを「飽き」てしまうことだ。

こうやって自分のために虚勢を張る、一生懸命でなくても生きようとする事を飽きてしまうというのは「死ぬ」ことと一緒だ。
実際飽きてしまったらそんなことを怖いとも思わないことだ。
つまりは私は「飽きること」によって「死」ぬことが怖い。

飽きることが怖いのは特に人に関してだ。
物に対しての執着心を捨てても、人に対しての執着心があれば生きていけます。
少なくとも私は。
それが無くなると私は他人と干渉しなくなり、他人も私に干渉しなくなる。
他人がいることによって成り立っている私はそうなると自己の確立がきっとできない。だから存在できない。
そんな「生」はきっと飽きる。
他人に「飽きる」という感情をぶつけたとき、自分にもそれが返ってくることだということだと思った。

今私はやっぱり他人に囲まれています。
いつも一緒にいる人や、連絡を取っている人は飽きたくない。
その人たちは私にとって必要不可欠とまではいかないにしても、今私を構成するのにはいてもらいたい人です。
自分勝手な書き方をすると。気分悪くなったらゴメン。
だから飽きられたくない人でもあります。

こんなに飽きっぽい私も、人を好きになることは飽きない。
なぜならそれは自分のためだから。
どこまでいっても飽きずに自分勝手。
いっそ生きることに「飽きれ」ば良いのにと思う。
本能なのか何なのか、こんなにも「生」にしがみつくのはなんでなんだろうと思った。

今日も眠いためものすごく変な文書いていそうです。
ごめんなさい。
ここをかくことも飽きても良いはずなのに飽きない。ここを書いているのにマンガを描きたがる。
それはどっちも私にとっての自己主張の場だからです。
どっちにもできることとできないことがある。
だから妙に長続きするんですかね。
オタク長続きの秘訣。
いらねー…


2001年10月21日(日) 昔日記

表と同じ題名ですが。
ひねりようが無いんですよ、頭悪くて。
今日は二度目の「千と千尋の神隠し」を見てきました。
意外に混んでるんですね、まだ。
妹と母と見に行ったんですが、ギリギリではいりました。ラーメン食べてたら時間が…またラーメンです。
つーか今ウッザイことにパソコのある部屋に家族全員がいてうるさいことこの上ないです。さっさと飯でも食いに行って欲しいですね。

で、やっぱり二度目ながら良いです。飽きませんね。
凄いですよ。なんつーかね、歳を感じます。私は。
こーゆー話はデジマンガ描いてるときにいっぱいしましたね。
ついこの前の話なんですが。8月ですからね。
でももうホントに昔に感じます。たった2ヶ月が。
昨日昔の日記を読み返してました。中学ん時の日記ですけどね。
昔から時の流れがすごく気になってたみたいです。
「いまのままでいたいなあ」とか。

今の私は法律上ではまだ子供で、でも本当に子供かと言えば自分でも解らない微妙な歳です。
一人では生きていけない。だから子供だと思う。
でも大人と同じことをもう簡単に出来る。だから子供じゃない。
どちらかと言えばもう大人なんでしょうけどね。本当に一人で生きていけないかと言えば答えは『NO』ですから。

子供は羨ましい位他人のために動けるものです。
それは本当は自分のためなのかもしれないし、自分勝手が他人のためになっているだけなのかもしれない。
でも子供はそんなことを思わせることもなく他人のために動いてるように見せる。
私はいつからかその行動が他人のためだと思わなくなり、「可哀想」は同情で見下すことだと思うようになりました。
子供にはそんなことを考えている余裕なんて無いんですね。自分が生きるのに素直に一生懸命だ。
いつからか私はそれが出来なくなって、大人の教えた倫理と言う建前と、自分の感じてる現実の間に身を置いている。
そしてそれに気づいた私はもう昔のように振る舞うことは出来なくて、戻りたいと思う後ろ向き思考を持つことになるわけです。

「千と千尋の神隠し」の、一番最後で白が「トンネルをぬけるまでけして振り向いてはいけないよ」と言ったのはこういうことなのかもしれません。
トンネルをぬけるまでというのは、私たちが一生懸命生きなくてはいけない時間で、その後は振り返って思い出すような時間があってもいいだろうということ。
一生懸命生きなくてはいけない時に振り返るのは「過去に捕らわれて前に進めないよ」と言う警告のように感じました。
後で振り返って笑えればいいじゃないか。って。
でも弱い私には難しい。
振り返る頃までにはもう忘れていそうで怖いし、過去にこだわらずにはいられない。
忘れることで生きていけることもあるのに楽しいことだけは覚えていたがる。
でも楽しいことだけを覚えていても私は生きていけないことも知っている。
時が止まればいいと思っていても成長しなければ良いとは思っていない。
時が流れなければ成長する事もないのに。
我が儘で自分勝手です。

「千と千尋の神隠し」を見ていて、「時」と言うものとともに私が感じたこととえば、やっぱり『完成されたもの』というものです。
私は同人をしてます。今は描いていなくても自分のオリジナルなものは描いていません。
そして題材は(と、いうんですかね?)は週間連載中のもので、完成されたものではないんです。
あ、『完成されたもの』っていうのは『完璧なもの』とは違うんですよ。
完成されたものには取り入る隙もなく、所詮私のやっていること(同人活動)というのは人の作品に難癖を付け、寄生しているに過ぎないと言うことを実感しました。
他人の作っているものをいくらいじってとしてもそれはその作品の『同人マンガ』でしかなく、その作品がいくらうまくても、感動させても『同人マンガ』でしかないわけです。

そして完成されたものをいくら好きになったとしてもその作品は感情を持つわけでもなく私に何を返してくれるわけでもないし、いつもは好きになったら『同人活動』ができるけど、『完成されたもの』ではそれも出来ない。
『完成されたもの』で同人しようとすればそれはマネになってしまう。
ホントに意味を成さない活動なんですね、本当は。
本当に上を目指している人はこんなことをやらずにもっと自分のものをだしているんだと思います。
私の意見ですけどね。あくまで。
同人は同人で意味があるものなのでしょうが、その限界が見えているという話です。

宮崎アニメはいろいろなことをさりげなく表現していて、本当にすごいと思いました。
でも本当に宮崎さんが表現したいことを私が感じ取ったのかというとそんなことは無いと思いますけどね。
所詮自分の感覚でしか感じることができないものですから。
感じる自分が偉いというわけでは全くないんですが、母と妹の何の考えのなさをみて、ホントに見る人にも『考え』というものを持ってもらいたいものだと思いました。


2001年10月20日(土) 昔日記

本日第3土曜日真っ昼間。今日は文化祭の代休ですよ。
先週私が無理矢理行かされたね…

昨日は住葉さんと電話してたんですが私が眠くてリタイア。
今日は早く起きれましたね!!とかいって9時間も寝てたんですが。まあ平日でも平気で9時間くらい寝る日もあるんでだから何だという感じですが。
平均3時間だったり8時間だったり週によって変わりますね。オタク。

話変わりますが今は平日の真っ昼間なため母が私の後ろをうろうろしっぱなしです。
別にいつもここには見られてまずいことは書いてないんで見られても良いんですが、見られてることを意識せずにはいられません。
私は普段は見られてることなんて意識せずに突飛な行動ばかりとっているんですがね。少しは意識しとけよって感じの。
「見ましたよ。」と言われて恥をかくまえにはじめから意識していましょう。

つーことで今日のお題は『見られることを意識する』です。

ここの日記は裏ってこともあるのかあまり見られてるってことを意識してなかったんですよ。私的に。
いっつも語り口調な変な文体は自分用の日記(小学生のときとか中学生の時とかの)でもそうだったんで、他人に向けたもんではなかったんですよ。
でも最近同じこと書いてばっかいるような気がして読み返してみたんですよね。

意識してんじゃん!!はは。笑えないけど笑っちゃう。
「誰も見てないだろうし。」
ってそれって見て欲しいってことでしょ。かなり意識してるよね。
書いてるときには気づかないもんなんだなあ。気づかないふりをしていただけかもしれないけど。
でもそれは誰かにむけて語りかけてるわけではなくて、誰かに見て欲しいんですよね。ただ単に。
それによって返事が返ってきたり、接触を試みてくれる人がいればそれは嬉しいけど、今まで私を知らなかった人が、私という存在を感知してくれればいいんです。
そういうものでしょ。
他人と一緒に生活するってさ。
自分が見てると同時に他人も自分を見てるんです。

私は普段いろんな人、ものを見て、いろんな感情を持って、見下したり、尊敬したり、感動したり、色々するわけです。
その時にいわゆる負の感情?
「嫌い」「気持ち悪い」「バカじゃないの」とか。
そういうのも持ったりするわけです。やっぱりね。
それは私にとって、私を構成するのに不可欠な要素になるんですが。
それを認めないで綺麗事ばっかりな自分は嫌だし、そうやって認めることで自分への逃げ道を作っているわけです。
「だってそうするしかないんだもの」ってヤツ。
それは今は関係ないことですけど。

で、私はその感情を表にあまり出すこともなく、可も不可も言わずにいることの方が多い。
それは私が見ていると同じように他人も私を見ているし、世間体だったり、周りとの調和だったり、常識のなかでここでは言ってはいけないということを考えているからです。
自分のためにね。

他人が私を見て、「うわ、嫌なヤツ!」とか、「この人バカだ」と思われるのはあまり快いものではない。
まあ普通はそうだわね。自分を良いふうに見て貰いたいわけだ。
だから見られていることを意識して、迂闊なところで変なことを言わないようにしている。
まったく人間というのは程度が低いっつーか。
またしても例に漏れず私もやってるんですけどね。
でもそうやって生きていくのは賢いんじゃないかな。何も考えずに口に出してばっかりの人より。
他人との関係は良好!みんな気持ちよく生きれますね。大勢の人が集まる社会ではそういうのは本当に大切ですよ。
できないと集団で攻撃されますしね。

でもそうやってずっと生きていくのは疲れる。にこにこしてばっかなんてさー、自分疲れて嫌になってたら本末転倒。自分のためになってないよ。
だから私は「見られていることを意識」して、自分の安心できる場所を作って息抜きをする。

まあ私の場合自分の興味無いことにはホントに無頓着なほうだから悪口なんかほとんどでないけどね。
自分と自分の感情をよくしてくれるっつーか、そんなことにしか興味ないんだなあ。自分勝手。
つーかそういう性格?だから結構にこにこ貯めてるようなこと無いかも。
集団で攻撃されちゃいますよ!賢くない生き方だ!

なんか何を言いたいのか訳が分からなくなっていしまいましたね。
要するに賢く生きましょうってことなのかも。でも自分の安心出来る場所を構成してくれる人には正直に生きないと無くしてしまうので気を付けましょう。

自分でも訳わかんなくなってきたよ…。
今日はもう諦めて。
また日付が変わった頃にでも。


2001年10月18日(木) 昔日記

題名がいつものごとく思いつきません。
何かいつもテキトーなこと書いてたけど今日はまったく全然思いつかない。
大体小題を付けるのは得意でないですよ。
文を書くこともあまり得意では無いのです。
しゃべることは好きだけれども得意ではないし。
好きなことはあっても得意なことは少ないねー。
私はとても偏屈でどこか人よりずれてるらしいので伝達もまともにできません。
喋れても伝えるのは難しいですね。

で、本日のお題は『伝えること』です。

前にも同じようなことしたっけ?なんかもう根本が同じなんで言ってることも同じで内容も同じに見えます。つまりは無駄なんだけど。
まあいいです。

私たちは意志を伝えるために言葉を持ってる訳ですが、この言葉ってものは本当に大切なものです。
当たり前だけど。無くてもコミュニケーションは取れるし、手話っつー手もあるわけですが、それにしたって「言葉」がないとなりたたないものですね。
ジェスチャーにしても。
なぜなら人は考えてから伝えるわけです。
どうやって考える?
言葉を使って。
言葉を使って考えて、言葉、もしくはそれに変わるもので相手に伝えるわけだ。
しかしこの言葉ってのはとても簡単で伝わりやすい一方、とても難しく伝わりにくい。
それは言葉は簡単に真実でないことを伝えることが出来るし、相手によっては本当に気を遣って言葉を選ばなくては妙な誤解を招いてしまうから。
でも私たちは言葉を使い、意志を相手に伝える。
それは本当に相手に伝わっているのかな?
簡単なことは伝わっているんだと思う。
「あれ取って」、「ここに来て」、とか。普通に話して伝わって無いことは無いよね。
でももっと複雑なことは?
「私はいまこれこれこういうことのために不幸だ」
「ああそうだね、そういうことってあるよね、つらいよね」

これってホントに伝わってるの?
私はそうは思わない。
結局人は自分の価値観でしか物事を考えられないし、「わかる!」といって話があったとしても、一部分だけかみ合ったに過ぎなく、後はかってに互いに自分の思い描くことを考えているだけだ。

自分の思い、考えが100%相手に伝わるなんてことは無い。

言葉以外の表現方法がある。けどそれにしたってそれを見たときの人の受け取り方は様々だ。
本を読む、映画を見る、絵を見る、舞台を見る。
それをしたときの感想はみんなが一緒になる?必ず作者の言いたいことが伝わってる?
自分で都合のいいように解釈しているだけだ。
それでも私たちはこの不完全な言葉と言うものにすがって、これを使って相手に伝えていかなくてはならない。
特に言葉は言葉でも文字だけのメール、手紙はホントに不便だなあと思う。
ここもね。文字ばっかり。しかも私は言葉をうまく使うことが出来ないから余計に。

だからこそ相手に本当に伝わって欲しいものは出来るだけ、100%とはいかなくてもそれにできるだけ近づけられるようにするべきだ。
本当に伝えたいのなら。

人間はもとより不完全なものなのだから、人間が使う『言葉』と言うのも不完全で当たり前なのかもしれないですね。
それでも私は言葉の力をかりて自己だけで完結したいと思うのです。

なんだか今日はものすごく眠たくて頭が働きません。
変なことを言っている…はずだ。
でもそれを確認出来ないほど眠い。
明日…補足とか、修正とかできちんとしたものに直したいなあ。
何かもっといっぱい書きたいことがあったはずなのに忘れてしまいました。眠い…


2001年10月17日(水) 昔日記

本当に頭に来るパソコンです。
なんだってさっきまで繋がっていたのにいきなり繋がらなくなるんですかね。
まったく…困ってしまいますよ。
そんなに私にここの日記を書いて欲しくないんでしょうか。
今だけなのにねぇ。
やる気のあるうちだけなんですよ。
世の中自分がやろうとしたらそれだけで良いんですよ。
どこまでも自分でやろうとすることが一番難しいんです。

つーことで本日は『やろうとすること』ですか?
微妙に違うかもしれないんですが。
簡単にいうと今日私は学校で講演会があったんですよ。その感想?
かなり前向きなおじさんが(丸山●治さんだっけ?)でてきて講演してたんです。
講演っつーのか?あれは…?わかりませんが。
とにかく前向きで、良い講演でした。

でもね、私は相当なひねくれ者らしいんですが。

「ナンバーワンよりオンリーワン」
だ、そうです。
何かの中で一番になる必要はない。自分だけの一番があればいいじゃないか。
何も一番になる必要なんかんない。

そうですよねー。私もそう思います。
一番になる必要なんか無いんですよ。

だからといってね、他人と自分を比べずにはいられないんですよ。
だって他者はそのためにあるんですよ。私の中では。
比べることで確認して、自分を確立するんです。
違うことだけを確認するんでなくて、その時に優劣も確認するんです。
自分が自信をもったものだからこそ他人よりも優れたところを照明したいんでしょ。
他人は自分を映す鏡のようなもので、自分が自信を持って良いのかな?私にはこれが向いているのかな?
そんなことを確認するにも他人と自分を比べずにはいられない。

「自分に合わなかったらやり直せばいい」

そんなことが出来るのならば人間困りませんよ。
流れていく時の中で、同じ時は一度も無いんです。
昔読んでいた本の感じ方が変わった。人への対応が昔と違う。
成長するにつれて変わるのだからもしかしたらやっぱりこれは自分に合っているのかもしれない。
というか合っていてほしい。

自分に合うか合わないかすらまともに決められない。
希望的観測と未練がましさが残り、ずるずると続けていく。

今までこれしかやってこなかった。
他に何をすればいいのか解らない。でもこれが自分に合わないことは解る。

やり直すなんてことはそう簡単には出来ないんですよ。
このままずるずる続けた方が楽なときもあるんです。
そして、楽な方を私は選びます。その結果は見ない。考えない。

「本気でやれば何かが変わる」

そうですね。本気でやればいろんなことが変わるし、楽しくなるし、他人にも自分にも認めてもらえます。
だけど生きている人のうち何人が本気になれるかな?
何事にも一生懸命やっていくことは良いことだってみんな解ってるんですよ。
それでも人はそれができる人間と、出来ない人間がいるわけです。
本気でやって、その後は?認めてもらえるとは限らない。
その後で言い訳を考えるよりも、やる前から言い訳を考えた方が楽なんです。
「私やってなかったから。」
出来ないことを認めるより、やらなかったことを主張する。
いつかできる、今やらなくても後でも出来る。そうやって逃げている人の方が多いんですよ。
本気でやれば何かが変わることぐらい、みんな解ってるんです。
講演を聴いて、変われた人もいるでしょう。
でも大半は聞いて、一瞬前向きになるけれどすぐに元に戻るんです。
もしくは、「何で今まで自分で気づかないようにしていたのに、なんで気づかせるようなことをするんだ」と、聞くことすら放棄する人もいるはずだ。

丸山先生はこういう人たちをどう思うなかな?
可哀想なヤツ。もったいない。
そう思うのかな?
そうやって思ったとしたら、自分と他者を比べてることになるよね。
「可哀想」
自分の価値観でもって、自分より劣っている。だから可哀想と思う。
「もったいない」
自分の価値観でもって、時間の浪費をしている。だからもったいないと思う。
自分の中の物事の基準に他者を当てはめて、勝手な判断を下して、自分はそうでないことを確認して安心する。自分はその人より優れていると確認する。

実際丸山先生がどう思っているかは解らないけどね。

やろうと思うことは誰にでも出来るんですよ。
だけどそれを行動にだすことが出来る人が何人いる?
行動にだした人は下を見ない。他者と比べて上を見る。
そうじゃないんですか?

私がいつも極論を言っているのは解ります。
丸山先生がとても良いことを言っていたのも解ります。
でも私はそれを上辺だけと感じました。

やろうと思うことは誰にでも出来る。
でも、やろうとする事は簡単には出来ないと思いました。

そして、私は認めてもらいたがっているくせに、やろうとする事の出来ない人間だと思いました。

つーかなんて長い感想文でしょうね。誰が読むんでしょうね。今日は日記に直に書いてないんでどれくらい書いたか解るんですが、2ページ半…?…以上?
恐ろしい!よくこんなに自分の価値観で物事を自分勝手に語れるものです。
自分にびっくり!!
もうここのページほとんど愚痴ページですよ。
ごめんなさい。
そして、この前の日記で気分悪くされた方にも。ごめんなさい。


2001年10月15日(月) 昔日記

今朝はheisiが寝てる間にきったないtopにかえて、イノ描いて、heisiの小説をupしました。
なんつーか…また夜に飲んでたんですけどね。しかもheisiがくるまえから私は飲んでて、heisiは昨日は珍しくビール1本しか(しかも缶)飲まないわで私一人であたまぐるぐる。
しかもあんたバカじゃねーの!?と怒られそうなことに酒飲んだ後で我が家のサウナに入りながら風呂に入りました。
久し振りに温泉でも行った気分でheisiと仲良く。
ぶっ!!気持ち悪い人たちです。自分で言うなって感じだが。
だいたいうら若き乙女は温泉でも互いに隠すほど乙女なんですよ。普通この年は。
おばん臭くサウナに入って水風呂に入ってですよ。
でもね、やっぱりおばさん染みてても体は若いんです。

heisi乳でけぇ!!細いし!もー私どうすればいいんですかね。
乳ねーよ!

そんな彼女と日々連れだって歩いている私は釣り合ってないこと間違いなしですよ。惨めですよ。

つーことでまた前置きが長くなりましたが、本日のお題は『釣り合い』です。
毎度訳の分からない前置きが入る…。

釣り合いって自分できにしてないつもりで本当に気にしてるものなんですよ。
つーか何でこんなに気にしてるんだろうってぐらい。
それは私が好きな人たちは例に漏れず凄い人たちだからなんだけど。
一緒にいて、会話をして、グチをいったり言われたり。
こういうことやってるとね、何で私この人と仲良くしてるんだろう、とか思うわけです。
何でこの人私と仲良くしてくれるのかな?とか。

人は無意識にでもなんでも他人と自分を比べだがるもんだとはわかっています。
それが自己を意識することに、他人は自分と違うことに気づくためには必要なことだということもわかっています。

と、いうかそれをしないと生きていけないでしょ。少なくとも私はそう。
ただ、そこで自分と違うことだけを確認するだけではなくて、どちらがより優秀かを考える辺りが釣り合いを気にする原因だと思う。
その時に、より上を見る人は前向きだといわれて、下を見下す人は高飛車といわれるんであって、どっちも根本は一緒なんですよね。

私の場合、そのどちらをするにも欠けている。
上を見るほど前向きでもないし、上をみて進んでいくと言いきる自信がない。
それほどに私は意志が弱くて、努力ができない。
要するにダメ人間なんだけど。
それに、下を見るほど上にいない。
他人を見下すことは心の片隅でやってるんでしょう。
でも、それを表に出して、態度にだすことはできない。
だって私はものすごく狡賢い。
その時は上に立っていたとしても、後から越されたときに、惨めになるのが耐えられない。
だから心の底から「あの人私より下手じゃん」とかいえない。
だから自分は下に、下に、と言う形になるんだよね。

自分が最初から最下層の人間だと思って行動する事は私にとってとても楽だ。

いくらでも言い訳が出来て、自分が前に進めたときに、少しの進歩しかしていなくても簡単に嬉しくなれるし、満足出来る。
それが悪いことだとは言わない。
けどそうやって逃げているくせにちゃっかり人を好きになって、一緒にいてもらってるのが自分で理にかなって無いと自分で解ってるから釣り合いを気にする。
一緒にいていいのかな。って。

結局自分が最下層にいると楽だからそこにいるくせに、それによってできた上の人との階級の差を自分の罪悪感から気にしてるだけなんだと思います。

何もかも認めて、他人を下に敷いて、下から越されると言うことに脅えながら、日々上を目指す努力が出来るほど私は人間がなっていない。
だけど一人でいることが出来なくて、他人を勝手に好きになってる。
期待はしてないつもりです。ただ好きなんですよ。私は。
私が勝手に好きなんです。
むしろ最下層の立場から言うのならば「好きにならせてください」になるんです。

でも一緒にいてもらえると、今度は自分が釣り合わないと気づく。というよりはじめから気づいてたのに気づかない振りをしていたにすぎないんですけどね。
悪循環の繰り返し。

だから私が好きになる人は一緒にいれて、嬉しいけれどものすごく気分爽快になれる人は実はいません。
普段はいろんなことに眼をつぶってやり過ごしている。
けど蓋をあけてみれば自分勝手のオンパレード。
でも自虐的になることは私にとって楽なことになるのでいいんです。

なんて陰湿。
私のいってる好きとはどんなに言葉を飾っても要は自分のためなんです。
『好きになること』で言ったのは本当のことだけど、根本はここからきてるのです。

私が普段好きだと言っている人に。

ごんめんなさい。ありがとう。

こんな所で言っても仕方ないんですけどね。
特に身内は見ていないはずですから。私が個人的に教えた人以外は。
こんな所でもちゃっかり逃げてます。言っていたらきりがないですけどね、ここがある以上。

なんだか今日の日記(と言い張るか…)はかなり私信じみた内容になってしまいました。
誰への私信か本人わかってるかな??
お互いにこれをやっていたら結局先はない気がします。
だからといって変われるものでもないけどね。


2001年10月13日(土) 昔日記

書きたいんですが昨日は寝てしまいました。
はは。いやー、寝過ぎですね。
起きたんですよ。一度。電気もつけたんですが「やっぱいいや。」って寝ちゃいました。根性無いです。書きたかったんだけどなあ。

で、最近保健室によくいくのですが、体育の先生がいるんですよね。
体育の先生っていうのはどうも頭が堅いって言うかなんつーか。
私はとっても苦手なんですが、今回もまた言われる訳ですよ。私みたいなやる気なしたグータラ娘は。
「アンタダメだよ。『現代と若者』(だったかな?)って本読みなさい。」
…はいはい。解ってますよ。現代の若者はなってないってやつでしょ。
今の若者は特別なんでしょ。あなた達の中では。

つーことで本日のお題は『特別であること』です。

友達がサイトを作って、そこにカキコしに行ったらレスで、私がやった性格診断てすとやったよーっていわれたんですよ。
私は彼女がどんな結果がでたか見に行ったんですね。ついでに自分のやつもどんなだったかみたわけです。
判断結果で一番多いのが私の診断されたものでした。
それなのにその所には「「みんなと同じ」であることに価値観をあまり感じず、…」とかいてありました。
皮肉なものですね。
一番多く診断されやすいものにみんなと同じには価値観を感じないんだそうですよ。

今の若者は他の年代からするとわかりにくいのかと思われます。
まあ人間わかるといってもホントに表面的なものしか解らないでしょうが。
それにしたってわかりにくいと。
でも私からすると、今、私が、「今の若い人」に分類されるからわかりやすいのかもしれません。つーか自分のことならですが。
自分のこともどこまで解ってるか解りませんがね。
一生懸命ここで私の怠惰を現したかったのに意外に他人には「がんばっている」を表現してると思われがち。
ということは私がまた無意識に表面に膜でも作っていかにも自分はがんばってるんですよって思わせる文を書いてるのでしょう。
そんなことにも気づかない私。いやだなあ…。
まあそんなことはおいといて。

人は誰でも(私的意見)特別に見られたいんだと思います。
それが特に今の人たちには多い。と、思う。
それは今の時代の人たちは自分に何か自信があると言い切れるほど強くないからだとおもう。
これは時代とか関係ないんじゃないのかなとか思われるかもしれないけれど、私はそうは思いません。関係あると思う。
自分が自信があると言い切って、失敗するのが怖い。そんな妙なプライドだけは高くて、なのにいろんな情報がいっぱい入ってくる今の世の中だから身の振り方もわりとうまい。
みんなと同じ身の振り方をして、大したヤツじゃないと思われる。
それは自分が招いたことなのに気に入らない。

滑稽だ。でも私はそれが自分にあてはまることがわかってる。
今の時代の人間は繊細なんかじゃない。
引きこもり?ふざけんな。
引きこもってないで家出くらいしてみてください。
自分が今の所から逃げることで、すべてを再構築する自信がないから逃げることもしない。ただ見ないだけだ。
自分は特別だとか、自分がまず自分のことを認めてないのに他人が認めるといたら、相当な努力と世界観が必要なんでしょう。
自分の今までやってきたことを認めることも出来ないのに他人が認めてくれるのをただ待ってるのはずるいことですよね。
自分を心から「まだ至らない」と思ってる人はやっぱり違う気がする。
そりゃ下は見てるでしょう。人間ですから。
でも上も見てる。影響されたものは、自分のものに変換出来てる。
きっと。私の希望的観測かもしれませんが。

そんなことも出来ずに、ただ「すごいなあ、すごいなあ」で自分は何もしていないのに他人を否定して(しかも表だっては出来ないくせに)自分は特別だけど、今はできてないだけだと逃げる。
そんなに特別でありたいくせに、自分はなにもしていない。
見ているだけはとても楽なんです。
マンガを描く。「私もーすっごい下手だわ。どうしたらあんなん描けるんだろう」
「あの人とてもうまいよね。すごいなあ。」
「やっぱり私読み専だわ。」
それで?じゃあさ、いつ、どこで、どうやって私は表現するんですかね?
「頭の中では出来てるんだけどさあー」
頭のなかを輪切りにしてもマンガのネタなんか映ってないんですよ。

他人がやってても普通に見える。
他人がこれをしてても別に気にならない。
でも私がこれを自分でやっているととても気に入らないのは、「がんばって生きている」からでも「正直に生きている」からでもない、ただ単純な話。

私は自分をより低レベルな人間だと思っていたい。
自分の不幸を探していることで自分を騙していたい。
それに気づいていることで、自分が特別だと思いたい。

これをこの人の個別な生き方だ、といってしまえばそうなのかもしれない。
でもこれではだめだ、これじゃあ何のために生きてるか解らない。
そう思うのは世の中がそういうのが主流だからだ。
そしたら世の中が変わったら、これが当たり前になったら、何が特別?
大体今の世の中だって特別になりたいというのは他人に認めてもらいたいからだ。
そしたら本当に「特別であること」ってなんなんでしょうね。

今の時代に生きていない人間の書いた今の時代の人間の本。
「世の中の主流」について書かれた本なら読まなくても大体のことは予想がつく気がします。読んでないのに偉そうだけど。
私が見たいのはもっと、実用的な生きるための(逃げるための)ことが書かれたものだったりします。

なんだかどんどん話がずれてますね。相変わらず文の書き方が下手ですみません。
一生懸命書いてます。自分のために。


2001年10月12日(金) 昔日記

ホントに久し振りな感じがして何とも言えません。
つーか実際久し振りなんだけど。
なんか最近頭がおかしくて…。いや、頭がおかしいのはいつものことなんですけどね。
今週はいろんなことがありました。つーか週末。
頭がいっぱいになるくらい膨大な量の情報というかが入ってきてパンクしそうでした。つーかしてたのかな?
周りに迷惑掛けすぎです。せっかく新しい友達も出来たのにね。ああ。もったいない。失礼なことしてきらわれてなきゃいいけど。

楽しいことがいっぱいあって、会いたい人にもあえて、未来を期待できるモノを見に行ってきて。
しあわせいっぱいのはずなのになんでかこんなに気が重い。
これってさー。Mですね。

つーことで久し振りの本日のお題は『しあわせの絶頂に死』です。

気取った題材だ。
しばらく書いてなかったらどんな風に書いてたかわからなくなっちゃったよ。

東京いって、行ってる間中もうこのまま新潟帰らないでフッっといなくなりたいという願望にかられた。
基本的にマゾ体質の私は自分でもどこかおかしいんじゃないかってくらい不幸に酔いたがる。
コレは本当に不幸になりたいわけじゃないんだよね。まったく。大半の人間もそうなのかもしれないけど。
コレに逃げることはとても楽だ。
でもこれはしあわせになりたがってることを如実に表してるんだよね。
なったらなったでいやなくせに。
だってしあわせになっちゃったら後はもう坂を転げるように下るだけでしょ。
これ以上のしあわせは期待できない。
人間は欲張りな生き物だから「これで十分」なんてモノは本当は無いわけだ。
だからがんばって自分の不幸自慢をして、自分で不幸なことを見つけてそれに浸る。
「私にはもっと『しあわせ』があっていいはずだ」
ホンットに滑稽。バカらしいことこの上ない。でもこれは大半の人間がやっていて、例に漏れず私もやっていることだ。
不幸の程度は人によってまちまちだけど、大した不幸でないくせに、さも大袈裟に周りに出している人間ほど滑稽だ。

私は今回東京にいって、カカサスオンリーに行って、とっても仲良くしてもらってる住葉さんと会えたり、ネットで知り合ったキルメニイさんと会ったり、板尾さんとの誤解もとけて、飴リンゴのお二人ともお話できて、将来明るい道に繋がる建物も見てきた。

なんかね、もう不幸なところ見つからなかったよ。
住葉さんところに泊めてもらって、久し振り(といっても1ヶ月だ!)に話せたりして、「むしろ私いいのかな?こんななのに。」
と思うぐらい。気が引けるくらい。
そんなことやってたら不幸なところいちいち探してるのがホントにバカらしくなった。
本当は私は人よりもやる気が無いから、一生懸命生きてる人に申し訳ない(そう思うことすら傲慢な)くらい不幸に触れていない。
努力もしてないのにしあわせを願って、不幸なんて無いのにあら探しをする。

しあわせだなあと思って、次の瞬間に思ったこと。

このまましあわせだと思えて、些細で滑稽な不幸探しをしないですむのならこのまま消えたいくらいだった。

そして私は今新潟に帰ってきて、本をよんで、学校にいかないで、不幸を探してる。
結局私は欲張りで、傲慢で、自分の今後に多大な期待を寄せた潔くない人間だった。

綺麗にありたいとは思わない。けど、潔くありたい。

行動にはまだ出せるほど人間が出来ていないけど、せめて言葉だけでも示したおきたいと思いました。

なんだか本当に要領を得ない文です。結局何が言いたいのかまったく判らないし。
いつもこんなになっちゃうよ。
あー。ここの日記はいつも根暗なことばかりだねえ。
つーか体のいい逃げ道だよ…


2001年10月05日(金) 昔日記

更新出来ました。
heisiさんの「鏡」です。私が寝ている間に送ってくださいました。
ありがたいね。せかしたのに。私がライセンスとるからって。
彼女もほしがっていたライセンス。私は将来もくそもないので取りに行きます。
彼女は将来有望なので取りに行きません。
でもサイトのためにきちんと文を書いてくれます。
私がつくりたいと我が儘いったのに。長年の付き合いだからもう熟年夫婦のようなんで恥ずかしい言葉は言えないけど感謝してます。

さて、今日はなんというか朝から昨日の日記を見てしまった友人Y(朝に書いたのに凄い子だ)は気分が優れなくなってしまわれたよう。
昨日の日記読んで気分悪くなった人すみません。

私は人一倍言い訳が多いんです。しかも自分で言い訳だと判っていて言う。
言い訳をしなければいけない行いをして、それについて言い訳をして、更に言い訳の言い訳をする感じ。
無限に広がる言い訳の輪。
それは言い訳の時もあるし、理由付けの時もあるけど、基本的にはものすごく理屈屋なんですね。
感覚の中では別に気にしないけど、いざ、言葉に出したときには理屈にあってなくちゃいやらしい。
『千と千尋の神隠し』で、「愛だよ愛!」みたいなこと作品のなかで言われていたけど、考え出すと、なんで千が白のためにそこまでするのか、それは愛なんて言葉で片づけていいのか、そもそも愛って?
ぐらいまで考えて、理由を付けたがります。
自信がないんですよ。要は。

『嫌いになること』で私は人に対する感情は好きかどうでもいいといいました。
でも、人に言わせると私のある種の「どうでもいい」は他のひとの「嫌い」になるのだそうです。
それでも私が「嫌い」ということが出来ないのは、
相手を否定することで、自分も否定される。
相手のすべてを否定する時に生まれる責任感のようなモノが怖い。
そういうことなんだと思います。
自分はやっぱり弱く、自分勝手です。

そして、もう1つ私が「嫌い」といえない理由は、そのある種の「どうでもいい」人に会った時、私はきちんと笑えてるんです。
わざとでなくて。
きちんと笑って、話すことができて、普通に「じゃあまたね」って言えるんです。
そういう風に出来る相手を、「嫌い」っていうんですか?
私にはわかりません。

本当に言い訳の多いことこの上ないのですが、本当は私は潔くありたいのです。
あがくのがカッコ悪いといいたいのではなくて、潔くありたい。
今日、学校の友達に(あまり親しくない)「カイヅさんは強いね」といわれました。
そんなことはありません。
でも、誰もが認めたがらないことを、私は潔く認めることができる人間になりたいんです。
自虐的にならないで。

今日の日記は補足のような感じになってしまいました。
ここはどんどん自分の王様の耳〜な感じになりつつあります。
本当に独白なんですよ。だから身内には見てもらいたくないんです。
心配されたいから書いてるんじゃないんです。なぐさめて欲しいから、私の浅はかさを否定して欲しいからじゃないんだって。そんなときは自分で言うから。

「ああ。こういう人なんだなあ」と普通に受け止めてもらえれば嬉しいんです。


2001年10月04日(木) 昔日記

今日帰り道遊んでみたりして色塗ってません。
バカですよ。つーかまたしてもほとんど寝ないで学校ですね。もー…頭悪いんですが。でも自分のせいなんですが。
時計の針が●回まわってた?
そんなこと知りません。気付かなかったんだもの。
知らなかったんだから仕方がないでしょ。
みんなと遊びたかったんだし仕方ないでしょ。

そんなことでは許されないこともあるのです。

と、言うことで本日は「知らなかったでは許されない」ですよ。

あああ。でも書けるのかな?あと一時間で学校行く準備だ。つーか昨日も書かなかったからさー。
昨日は寝てたんだけど。
まあいい。がんばる。日本語おかしくても(いつもだけど)許してくれるといいな。

今日私は相変わらず鈍感で、言わなくても良いことを言いました。
それは「知らなかったから仕方ない」とは言いたくない。
実際知らなかったんだけど。
知らないからといって許されるわけではないこともあるんですよ。
それは自分が「許せない」のが大半ですが。たいていの人は「この子は知らないんだから仕方ない」で許してくれるんです。
でも、完璧には許せていないのが普通で、「知らないのは判ってるけど許せない」って気持ちがあるはずなんです。
私の今日の発言は正にそれ。
好きな人にはそんな些細なことでも「この子悟れないのかな」とかおもわれたくないんだよ。
私は究極の我が儘女だから。
知らなかったからっていってその人の言いたくないことにつっこんだり、痛いとこつくのはダメなんだよね。
つーか自分勝手に後悔してるだけなんだけど。
ただ単に自分が勝手に「言い訳」したくないんだけど。
「知らなかったんだもん!」って。
むしろこれが言い訳なんだろうけど。バカだよね。
要するに救いをもとめてるっってゆーか、誰かに
「あんたさー、最低だよ。そうゆうこというなよ」
って言ってもらえれば私には救いなんです。そしてこれを言うのが本人だったならば本当に救いなんですよ。
安易な考えに逃げてる私。だけど、好きな人相手だけに言って欲しくないこと、つっこまれたくないことは「聞かないで」とか「アンタのそういうところ嫌い」とか言って欲しい。
かなりの我が儘で、相手がそれを言うのがつらいことなんか考えてないけど。

悟れ、気付け、心配してよ。

それを全面に出してる人には頭をつかって何を望んでるかなんか考えたくないの。私は。傲慢でしょ。それは。
そんなのにね、付き合いきれないよ。
言わなきゃ判らないことなんかいっぱいあるのに、自分から言わないで、聞かないで、「そんなの知らなかったから」って言い訳してるのはずるい。
自分の見たいこと聞きたいことだけを見たがるのは人間として仕方ないんだと思うけどね、私だってそうだし。
だからといってそれが通用しないこともあるんだよ。

そんな人たちはいいんだよ
でもね、気付いて欲しくないから私に何も言わなかった人なのに、それを考えずにつっこんだ話をするのはバカだ。考えなしだよ。
知らなかったからではすまないの。だって実際相手は気分悪くなってるんだしね。
それを私は「知らない」からって無理矢理相手に流さしているのがせつない。
かなりの個人的意見なんだけど。つーか自分が悪いのに自分勝手だ。
自分の気分が悪くなるからってね。

無知の知。
確かにそうだ。知らないことを知っているというのは凄いことだ。
私がもっと知らないことを知っていれば良かったんだよね。
本当に。誰に謝ればいいのか自分に怒ればいいのか。
どっちも無駄だよね。
そうやって自分はあくまで自分のために生きていることを実感しました。


いつものことだけど、私の話はものすごく極端です。偏屈だから。実際相手はなんて思ったか判らないけど、私だったらそうって話。
そして相変わらずわけのわからない話です。
日々私は後悔ばかりの毎日。そんで誰よりも言い訳が多いから誰よりもそれを少なくする努力が必要なんです。


2001年10月02日(火) 昔日記

題名内容にまったく関係ありません。
だから題名って何書けばいいのかさっぱりなんだってば。
さて、今日はホントにいい日ですね!!
あー恋の上級ライセンス取得出来そうですよ。ホント嬉しいです。
てか、オンラインの方いっぱいいかれるみたいなんで会ってみたい人とか見てみたい(正直に好奇心)人とかいっぱいなわけですよ。
そして私信だけどあなたに会いに行きますよ!!

でもまあ人生というのはいいことばかりではないものです。
今日(やっぱり日付の上では昨日)は朝っぱらから校長の話ですから。
私は彼の話が聞くのはそれほど苦になりませんが(半分寝てるから)、「嫌い」です。

つーことで本日のお題は昨日に続く形で『嫌いになること』です。

嫌いになるのは難しい。
好きになるのと同じで、嫌いになり続けるのは難しいものです。
てゆーか、疲れるでしょ。嫌いになり続けるのって。
好きになり続けるのと違って楽しくないし。
私はなんだかんだ言って嫌いな人ってのはあんまりいないんですよ。
苦手な人=嫌いな人になるならそれなりにいるけどね。
部分的に嫌いな所のある人はいます。
つーかいないのはおかしいって。

私は今日校長の話を聞いていました。
彼はとっても不思議な人で(私にはとてつもなく不思議で仕方ない)校長なのに話が薄っぺらい気がします。
なんでそんなこと言えるのかなーとか思ったりするわけ。
今日の彼の話は、
「先日、ある先生が生徒に何故勉強するのかと聞かれて、咄嗟に答えられなかったそうです。(中略)
二宮金次郎の銅像があるように、昔は勉強したくてもできなかった。しかし、昔の人はそれでも向上心がありました。働きながら勉強したのです。
夏目漱石の『こころ』でも言われている『向上心のないヤツはバカだ』というのはつまり、『向上心のないヤツは人間ではない』ということです。
私の答えを言わせてもらうと、人間は生まれ持っての向上心があります。だから勉強するのです。」

私流にかなり省いて、極端に言ったかもしれませんがこんな感じのことを言っていました。
どうですかね。
私はそれまでも彼の話をよく聞いています。てか、文句をいったり、けちを付けたりして聞いてるわけですが、結果的に彼の考えは私に合わない、だから私は彼の話は「嫌い」になりました。

でも嫌いになるのは疲れることです。いちいち嫌悪感を抱いたり、相手の言葉にいちいち反応したり。
「嫌いになる」ということは「好きになる」ということとほとんど大差ないのかもしれません。
相手のことを考えたりするわけですから。
だから私は、嫌いと言う時は、その人のことをきちんと判ってから言いたい。
だってどうせ相手のことを考えるのなら疲れない方がいいでしょ。
それで好きになるかもしれないし、新しいことがわかったら見方も変わるかもしれない。
てかなんにも知らない癖に好きという資格があるのか?と同じようになんにも知らないのに嫌いという資格はあるのかってかんじ。

究極の理想論だけどね。本当に。気持ち悪いくらい。

私は本当のところ自分の感情は「好き」か「どうでもいい」になるんですよね。
むしろ心の底から嫌いってモノや人に出会ってみたいくらい。
「嫌い」と「どうでもいい」ならさ、嫌いのほうがいいと思うんだけどねぇ。

ああ、でも私はものすごくやきもち焼きなんで、「ジェラっちゃうよ!!」とかいって嫌いと言うときはあります。相手のこと知らないくせに。
良くないことです。後から実は全然普通の人だったってことありましたから。

理想ばかりを追いかけても仕方ないと思いつつ、日々向上したいと思う。
何も勉強だけじゃないと思うんだけどね。

今日の日記はホントにホントに内容薄いくせに長くなっちゃったよ。
もっと考えてから文にしろって感じだ。やっぱ湯船に浸かって考えるといいんですかね。日本語って、考えるのって難しい。
いつもにまして薄っぺらくて長い文、読んでくださった方に多大な感謝です。


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