2002年08月31日(土) |
さよなら八月。。さよなら夏。。 |
さて、今年の夏はもう終わった。と、思う。
今日は、少し蒸し暑くはあったが、陽射しはもう秋のそれである。 ラジオの帰りに、植物園の横を通った折、名前のわからぬ木に、 小さな赤い実がたわわになっていて、たくさん鳥達が啄ばみに来ていた。 彼らは、一足早い秋の収穫に、嬉々として、せっせと動き回っている。
よくよく考えてみると、今年はまだ、植物園を訪れていない。 こんな、夏も終わろうという時にそんな事を思っていては、 行こうと思った時には、もうすっかり外は寒くなって、 霜の降りる閉園の時期かも知れない。
時期は大切である。 一度逃すと、二度と機会がない場合もある。
実は今年の夏、私は重大なミスをしている。 あの、今度は何時あるかもわからない、ゴッホ展に私は行かなかった。 理由の一つにJAZZフェスの予定が入っていた事もあるが、 もう一つには、私自身がゴッホの大ファンではない事が挙げられる。 好きなコローやモネ、デュフィ、クリムトやラファエル前派だったら、 どんな用事があっても、時間を捻出して即座に行く。
だが、ゴッホ展。 今度いつ見られるかはわからない。 一度見たら、ファンになってたかも知れぬ。 この夏、唯一の心残りである。
自由研究の昆虫採集の標本に、ぜひ加えたい一種類の蝶が揃わないまま、 滞在していた親戚の住む北の街から、列車が駅を定時に出発進行してしまう、 夏休みの終わりのような、そんな気分なのである。
あと残すところ一日で、八月も終わり、夏とは訣別である。 もうすでに、陽射しは秋の趣きである。
春先から、早朝集まってくる裏庭の野鳥たちは、 最近では、裏のお家の結実したスモモに群がっており、それは大賑わいである。 深夜、帰宅する頃は、名も知らぬ秋の虫たちが、ジージー鳴いている。
やはり、もう秋は来ている。
先週は、大雪の旭岳と黒岳に初雪。 今年は季節がめぐるのが早い。
人間は、暦を生活の目安にして、日々を送っているが、 暦よりも先に、季節がやってくるとしたら、 何を目安に生活していけば良いのだろう。
カレンダーの次の月をめくる前に、 次の季節の密使がもうすぐそこまで来ているのである。
2002年08月29日(木) |
超現実な街を行き来する。。 |
仕事場の向かいのビルが取り壊されて、跡形もなくなった。
こちらは3Fなので、ピアノに向かって座っていると、窓際がやけに明るい。 「は?」と思って、窓の外を目をやると、ずうっと向こう側のネオンが、 あった筈のビルの空間から、たくさん見えて明るいのである。
その取り壊されたビルは、もともと成人向けで有名な映画館であった。 学生の頃、友達とその映画館の前を通っては、 今時こういうの見る人っているんだろうか?と言ったものである。
時代は変わる。
映画館はゲームセンターになり、次に2Fにカラオケルームも出来たり。 だが、とうとう取り壊しになったのである。
上からちゃんと見ると、申し分のない廃墟である。
少し前に、学校が一つ、街なかから姿を消しているのに気付いたこともあった。 もうすでにそこは、整地されていて、跡形もなかった。
こういう事は、何だか、ぽっかりと心に穴が空く感じがする。
元々、街というのは人間の作ったものだから、 永遠などありはしないとは思うのだが、 住み慣れた街の見慣れた風景が、ある日突然変貌するというのは、 長年の住人としては、ある意味超現実だったりするものである。
今度はその場所に、どうやらビジネスホテルが建つらしい。
深夜、帰宅してTVをつけたら、イタリアのお米料理の特集をやっていた。
まず最初に、ライスケーキ。 随分前になるが、雑誌に載っていたドイツのレシピで、 チョコレート味のを作ったことがあったので、 イタリアンカスタード仕立てにしたライスケーキは美味しそうに見えた。
次に、鯉のリゾットファルシー。 鯉のお腹にお米を詰めた料理。 これも、フランス料理のレシピで、鮎や鯛のファルシーを写真で見たので大丈夫。
だが、最後の最後に凄いのが出て来た。 どうも、シェフの特製らしい。自慢げである。
メロンと海老のリゾット。。。
味付けは、あのゴルゴンゾーラ(!)である。 メロンは、さながら夕張メロンのような、甘そうな赤肉メロンを丸く切り抜く。 玉葱を炒めた後にそのメロンを入れて、一緒に炒め、スプマンテを入れる。 それと海老をリゾットに加えて、ゴルゴンゾーラと和えて出来上がり。
全く、想像出来ない味なのである。そうだ、メロンはカボチャだと思えば。。 うーん。どうだろう。栗のリゾットは知っている。それは想像できる。だが。。
メロンと海老とゴルゴンゾーラに米。 やはり、日本人にはちょっと想像に苦しむ味のような気がするのである。
昨日、本屋めぐりの途中、いつも通っている鮨屋の前で、 長毛種の白い猫が、おかみさんに餌を貰っていた。
非常に、毛並みの良い、美しい猫である。 お寿司のネタの切り落としでも、貰っているのだろうか。 白い猫は、何か独り言を言いながら、美味しそうに食べている。
さて、他のお鮨屋さんにも、思いがけず、 店横の小路に、たくさんの猫を発見して、驚くことがある。 どう考えてみても、二家族以上の数の猫たちなのである。
シャムやアメリカンショートヘアの雑種のような洋猫で、 青い眼の、やはり毛並みの良い野良猫たちである。 たまに、彼らが道路を走って渡っていると、機敏に駆け抜ける姿まで、美しい。 鮨屋の周りの猫は、当たりが良いのかも知れない。
誰かが拾ってくれると、寒い冬を外で越さずとも良いのだが、そうもいかない。 やはり、厳しい冬には一気に数が減り、寂しいものである。
だが、それが春ともなると、また、ちゃーんと増えて、 夏から秋には、美しい猫たちが街を走り廻るのである。
鮨屋の周りの猫は、当たりだけではなく、運も良いのかも知れない。
今日は、仕事の合間に本屋巡り。
池波正太郎関連の文庫本を三冊ほど購入。 hirosanおすすめの剣客シリーズの第一作「剣客商売」。 「剣客読本」「江戸切絵図散歩」。 「剣客読本」は、剣客シリーズのガイド的参考書。さっと読んでみたが面白い。 さながら、「剣客の傾向と対策」(笑)である。
その後、お茶探索。 レピシエで、新作の紅茶「オランジュ・ショコラ」と、「夢」の詰め替え用。 いま、20%増量セールでお買い得である。
英記茶荘で、高山烏龍茶と大白牡丹王を購入。 高山烏龍茶は、微かによもぎのような匂いがする。
今、それを飲みながら日記を書いているが、 所謂、烏龍茶の既成概念とは全く違う味である。 苦かったり、渋みが殆んど感じられない。 高山茶は1000m以上の山に育つ木から採れる茶葉を使っている。 味も香りもまろやかで、お煎茶をかなり軽くして、 よもぎのような、緑の匂いと野生味のあるお茶である。 胃にも優しい感じがする。
普通に出回っている烏龍茶がダメと言う人も、これなら大丈夫かも知れない。 そんなお茶である。
さて、それでは高山烏龍茶を飲みながら「剣客の傾向と対策」(笑)で、 池波さんのお勉強を始めます。
今日は、昼間、知己の方たちと浦臼のワインの里フェスティバル、 夕方からは、知人の合唱のコンサートでkitaraに行って来た。
朝方は雨が上がっていたので、安心して浦臼に向かって出かけたが、 途中から雨が降り出し、中小屋あたりから雨脚が強くなってきた。 今年は、やはり雨が多い。
今年、道内の夏の野外のイベントでは、雨に泣いたところも、 さぞかし、多かったのではないだろうか。
それでも、浦臼に着いて、会場でジンギスカンを焼いている内に晴れてきた。 やはり外のイベントは、空が晴れないと気分も出ない。 ワインを飲みながら、ジンギスカンと、ラムの丸焼きを頂いた。 ラムの丸焼きは、炭火で焼いている為、匂いもあまりなく、 ローストビーフ以上に美味しかった。
帰りに、晴れた浦臼のワイナリーの葡萄畑の風景を車から眺めたが、 TVでよく見るフランスやイタリアのワイナリーの葡萄畑の風景によく似ている。 余市や仁木の葡萄棚とは仕立て方が異なり、 たくさん立てられた低い木の杭に、葡萄を仕立てているのである。
雨後の広い丘陵地に、葡萄畑が広がっている景観は、美しい。 葡萄畑の丘陵線から上は、限りなく白い雲や青い空。 先ほどまでは、蒸した夏の天気だったのが、涼しい風も吹き、 すでに、秋の様相を呈している。
さて、札幌に戻り、kitaraで合唱のコンサート。 ゲストにパイプオルガン奏者の方が来ており、 思いがけず、初めてkitaraのパイプオルガンの音を聴くことが出来た。 ラッキーである。 90人の男声合唱は重い音で、グノーのミサ曲をやったせいもあり、 もう気分はすっかり冬のクリスマスである。
今日一日は、なんだか3つの季節を巡る旅のようで、非常に面白かった。
今日は、wakaさんがいらして、本を一冊頂いた。
「池波正太郎。男の世界」 wakaさんの、文学上のお師匠さんの中村嘉人氏の本である。 私は、池波正太郎のエッセイが好きで、何冊か持っているが、 池波正太郎に関する評論関連の本を全然持っていないので、非常に有り難い。
ラプサンスーチョンを飲みながら、ページをめくっていると、 やっぱり、鬼平や梅安、剣客商売を読まなきゃだめかなぁ、と思う。
どうも、私は、エッセイ読みの傾向があり、 短編ならまだしも、以前にも書いたように、 長編小説には、なかなか手が出ないのである。
さて、wakaさんが珍しく、睡眠中の夢の話をなさった時、 そういえば、自分はここ何週間、見ている筈の夢を、 全く覚えていないことに気付いた。
夢見というのは、おもしろいものである。 現実で実現出来ないことも、可能だったりする。
夢で何を実現したいかと言うと、平安時代や江戸時代、 明治の時代などで、全く違う生活を送っている自分が見てみたい。
ずっと前に見た夢で、中国で暮らしている夢を見た事がある。
映画「ラストエンペラー」を見た直後で、その影響であるのは間違いないが、 えらくリアルで、色彩も鮮やか、画像も鮮明(笑)で、いい夢だった。 美しい紫禁城のような場所も出てきた。
もう一度、続きの見たい夢である。
今日は、来札したfullさんとsizukuさんがボーダーにご来店して下さった。 fullさんは、春先にsizukuさんといらっしゃったので、二回目の出会いである。
前回、fullさんにお会いした時、私はまだ、自分のサイトを持っていなかった。 自分用のPCは、昨年購入したばかり。
私が、コンピューターを習ったのは、 コボル言語の時代(地球の歴史で云うと恐竜時代。笑)。 マークシートでプログラムを入力、エラーが出たら、 また最初から、マークシートの書き直し。(センター模試の何十倍もの枚数。) 会社に入った頃は、ピンクの紙リボンのパンチテープでロード。 直接入力で、タイピング。さながら和文タイプである。肩が凝る。 データの送信は電話用データ送信機を使う。 (電話の受話器を使ってデータ送信する。)
現在と比べてみると、ただ方法が変わっただけで、 基本的な部分やシステムは、あまり変わらないとは思うが、 現在のPCはやはり、簡単で便利になったと思う。
だが、サイトは作っていなかった。 sizukuさんやfullさんのサイトで遊ぶようになり、 直にお会いした時、「作りましょうよ〜」の一言で(笑)、 「やっぱり作ろう」と思ったのが、きっかけなのである。
人生、似た価値観を持っている人や、趣味や気の合う人に会う確率は低い。 この5ヶ月というもの、たくさんの方々と出会えた。
お二人のお陰で、サイトを持ってしまって(笑)、本当に良かったと思っている。 今日、またお会いして、再認識し、 つくづく感謝の気持ちでいっぱいなのである。
今日、サイトの「離れ」にお茶室を造ってみた。 本当の事を云えば、出来る事ならば、それこそ本物の茶室が欲しいのである。
私は茶道を本格的に習った事がない。 だが、お茶好きである。
コーヒーも、勿論、大好きでよくドリップするが、 お抹茶を点てて飲むとき、一瞬、日常生活の感覚から離れて、 ちと精神構造が変化するのである。
お茶のそういうところが、武士などに愛された由縁かも知れぬ。
武士がお茶室に入る時は、入室以前に刀をはずす。 茶室に、刀を持ち込むことは出来ないのである。 それは、武士にとっては日常ではない。 刀を持たぬ武士は、誰が考えてみても、尋常ではない。 正真正銘、非日常なのである。
そのときだけは武士である事を忘れ、お茶の為だけに思考し、行動する。 純粋に、お茶のためだけに費やされる時間なのである。
長いこと街で暮らしていると、例えそこが大好きな街であっても、 たまに、遥か遠くに離れたくなるものである。
だが、どうしても時間の自由が利かなくて、街から離れられなくとも、 日本の自然や、文化、美的価値観の凝縮された、庭や茶室を訪ね、 お茶の為だけの時間を味わうことで、非日常の精神が、疑似体験できる。
何より、ほっとするだけはでなく、気も引き締まる感じが、 お茶の良いところなのではないかと、最近は思っている。
今日は本当に寒かった。 寒さ凌ぎに、仕事には秋冬物の黒い服を着ていった。
さて、いつも仕事に行っている所で、昨日からピアノの上に吾亦紅が飾ってある。
夏の終わりから秋にかけて、よく見かける花であるが、 その何とも、隙だらけの、空間に蔓延ったような枝ぶりが、 賑わった季節の終焉の寂しさに見事に合っていて、物悲しい。
その吾亦紅が、ピアノを弾くと、微かに揺れる。 頷いているような、頭を振って否定しているような、 切花ながら、まるで生きているみたいなのである。
華やかさはないが、空間に広がる枝ぶりのせいか、 そこはかとない侘しさが美しい、不思議な存在感のある花である。
「枯葉」をやりながら、その揺れる吾亦紅を眺めていると、 この秋はどんな秋になるのだろうと、あれこれと、少し思いを馳せた。
札幌は急激に寒くなった。
今夜、南4条通りの電光掲示板の温度計が、16.5度まで下がっていた。 随分と低温になったものである。
今年の夏は冷夏で、日照時間が減少、長雨もあって、農作物があまり良くない。 秋の収穫時期、北海道の農産物業界は大変だと思う。
いつもは気持ちの良い、過ごしやすい初夏も、本州の梅雨のようだった。
本格的な真夏の筈の、大通りのビアガーデン開催期間中、 雨の降らなかった日は、なんとたったの4日だったそうだ。 なかなかの記録である。
さて、この夏、私は野外jazzフェス付いていて、 芸森や、はるばる遠く、倶知安まで出掛けて行ったが、 考えてみると、本当に暑い日は少なかったように思う。
だが、これだけ寒くなると、大して暑くも無かった夏ではあったが、 過ぎ去ってみると、その夏が、なんだかさよならを言う前に、 遥か遠くに行ってしまった大事な人のようで、 夏の終わりの静かな海に、ただ一人取り残されたような寂しさが、 ふと、胸をよぎるのである。
気温というのは恐ろしい。
映画「初恋」で、ジョン・モルダー・ブラウンが、一枚仕立てのコートを着て、 誰もいないプールで一人佇んでる、そんな感じの寂寥感なのである。
昨日、仁木のフルーツパークで買い求めたうずら豆を、帰宅後、煮ている。 今日の昼から浸水させていたのを、鍋にかけた。
最初の水は茹でこぼし、とあるので、 煮立って少し経ってから、ざるに一度あげると、懐かしい豆の匂いがする。 小豆はよく煮るが、うずら豆を煮るのは久しぶりである。
小さい頃は、ストーブにかかっている大鍋の蓋を開けると、 豆の香りのする蒸気が上がって、見るとうずら豆が煮てあった。 煮すぎると、溶けかかって、さながらポタージュのようである。 それにお砂糖をたくさん入れて、少し煮詰め、 どろどろになったのをスプーンで食べるのである。
大きくなってからは、うずら豆は、ポークビーンズにしたり、 スパイスをたくさん入れて、お豆のカレーにして食べたりした。 味のある豆である。
今日は、あまり煮崩れしないように、弱火でそっと煮ている。
現在、甘くしようか、どうしようか、迷っているところである。
今日は、主人の故郷の余市と仁木に行ってきた。
余市と仁木は隣同士の町で、初めて連れて行ってもらった時から、 一体、何処から余市で、何処からが仁木なのか、今でもよくわからない。
余市も仁木も、赤や緑の実が下がった葡萄棚が広がり、 林檎の木には、もう赤い林檎がたわわに実っていた。
仁木で墓参をした後、町営のフルーツパーク仁木というところが出来たそうで、 ついでに寄ってみた。
温室の植物館もあり、様々な種類のフルーツの木があって、興味深かった。
ちょうど、パッションフルーツ、デコポン、文旦、夏みかんなどが、 実をつけていて、館内は、甘酸っぱい香りで一杯である。
最近は仁木でも、ブルーベリーやプルーンフルーツの栽培をやっており、 その販売や、ブルーベリーソフトクリームもあったので、食べてみた。 意外にシンプルな味で、美味しかった。
その後は、本家分家を廻ったが、広い敷地に普段から丹精している葡萄棚や、 林檎を見ていたら、植物はやはり自然に外で育てるのが一番か、と思う。
札幌と違い、清冽な空気で満たされているそこでは。
2002年08月17日(土) |
クィーンズコンサートのクラプトン。。 |
今日、帰宅してTVをつけたら、クィーンズコンサートの映像を放送していた。 イギリスのエリザベス女王の戴冠50周年記念のコンサートだそうである。
ロッド・スチュアートから見たが、その後ポールが出てきて、 「BLACKBIRD」をギターで弾き語り、その次にクラプトンと一緒に、 「WHILE MY GUITER〜」をやったのが格別良かった。
ポールが一緒にやっているのにも関わらず、 クラプトンがやると、そのギターのヴィンテージな響きと、 クラプトンのあの歌声の、クラプトンカラーに染まった、 ビートルズナンバーになる。 それをそのまま録音して、CDにしたくなった程である。
幾度となく、引退の噂が出ているクラプトンだが、 その確立された音の世界は不動のものであり、 一音弾いただけ、ワンフレーズ歌っただけでも、 それがクラプトン以外の何者でもない、 濃いカラーで彩られたクラプトンの音なのである。
登場した時に多少顔色が悪く、体調はどうなのかなぁ、と思ったが、 音は紛れもなく、いつものクラプトンであった。
いつまでも長く活動していてほしい、ミュージシャンの一人である。
先日買った中国茶の本に、岩茶(巖茶)というのが書いてあり、 気になって、ロビ地下の英記茶荘に寄ってみたら、何種類かあった。
その内、白鶏冠巖茶と他二種類購入した。
ちなみに岩茶は、300m以上の高い岩肌に自生しているものでないと、 本当の岩茶とは言えないそうである。
貴重なものでもあり、予想以上にとても高く、 100gは買えないので、25gだけ試しに買ってみた。
帰宅して、淹れて飲んでみた。
これがまた、何処か、野生な味のするお茶である。 お茶というよりも、自然の植物の匂いがする。
繊細なお抹茶もいいが、たまにこういう、ファウンデーションなお茶もいい。 人の手があまり触れていない、人の息のかかっていない感じの飲み物である。 単純で、自然。素朴な味と香り。
だが、何煎目であっても、その味と匂いが消えることはない。力強いお茶である。
今日は、母が退院した。
入院先から、実家まで送って行ったら、 実家で、姉がお赤飯を用意して待っていた。 どうも本人が食べたいと言っていたらしい。
折角なので、御馳走になってきた。 筑前煮や、胡瓜の味噌漬なども用意してあって、 よく一人で作って待っていたなぁと思う。
さながら、正月のおせちのようである。
食事が進むと会話も進み、何十年も前の夏休みの話題まで出た。 ある日、みんなでお寿司を食べに行こうかと言ったら、 あなたは焼き鳥がいいと言った、など。 全く身に覚えのない(笑)、私が小さな頃の話である。
幸せの瞬間というのは、その時はいかにも普通の事に感じていても、 後から思い返してみて、あぁ、あの時が幸せだったのだ、 と再認識することがある。
それこそが、真実の幸せの瞬間なのである。
そうして、過去の楽しい思い出話をしている時も、 後から、思い返せば、それ自体が、実は随分と幸福な瞬間なのかも知れない。
今日は、嬉しいことが二つほど。
一つめは、明日、母が退院の予定。めでたい。 結構、重い病気であるが、悪い所を取ったら、 あっと言う間に良くなったのである。 再発のことは、今はあまり考えたくない。 そうなったら、そうなった時に考えれば良いと思う。 少しは、一時であっても、ささやかな幸福を味わいたいものである。 本人も、ほっと一息だと思う。
さて、もう一つ。
なんと、あのイカ踊りで有名(笑)、函館在住のhirosanが、 東京のごまさんと一緒にご来店なさったのである。 突然の出来事で、かなり驚いた。
私は掛け持ちの仕事が、お盆期間中でもかなりあったため、 ゆっくりと、お話出来なかったのが残念であったが、 わざわざいらして頂いて、嬉しい限りである。
hirosanが、実はナウシカファンというのも初めてわかった。 元・高校弓児に一人でお会いしてしまい、なんともったいない(笑)。
今週は、広島の方で、いつも私の日記を読んで下さっている方も来札、 お会いしてお話もした。 彼女は、滝川のネット仲間の方の飼っているペット(!)にも、 会いに来たそうである。 そういうお話を聞くと、何だか、ほのぼのとした気持ちになる。
ネットって、デジタルな通信手段のようだが、言語媒体であることによって、 実はアナログなメディアであり、結果、人と人とのつながりなんだと思う。
本当に、たくさんの方々に大感謝である。
2002年08月13日(火) |
ツール・ド・フランス。。 |
深夜、帰宅してTVを付けたら、ツール・ド・フランス2002の総集編をやっていた。 走行距離3400km以上にも渡る、過酷な自転車レースである。
アルプス山系を自転車で駆け巡る。
通り過ぎる風景が、限りなく、美しい大自然の中、 勾配やカーブが激しいコースを物ともせず、ただひたすらペダルを漕ぎまくる。 ステージごとに、ゴールがあり、ゴール前は観客も多く、なかなか見せ場である。
いわゆる自転車のラリーである。
自転車に故障があっても、どうにか走行出来れば、そのまま走る。 そうなってくると、忍耐力や持久力の勝負になってくる。 身体能力の高さは、もちろん言うまでも無い。 アルプスの山を、ペダルを漕いで登るのである。どの選手も凄い。 普通に歩いて登るのも大変なのに、と思う。
さて、ゴールはパリである。 凱旋門をバックに表彰式が行われる。粋である。
個人優勝した、アメリカのランス・アームストロング。 家族が祝福しに来ていたが、彼はアメリカ人なのに、 凱旋門をバックに映っていると、いかにもエビアンが似合いそうな、 ナチュラルで、ユーロな家族に見えるから不思議である。
自転車では無理だが、一度はフランスに行って、 様々な場所を巡ってみたい、 そう思ってしまうスポーツであった。
先週購入した、司馬遼太郎の短編集「人斬り以蔵」の中から、表題作を読んだ。
「人斬り以蔵」とは、いかにも物騒なネーミングであるが、 実際、幕末の時代に生きた以蔵がそう呼ばれていたのは、 真実のことであるので、致し方ない。
足軽の身分でありながら、土佐藩の剣豪で道場主の武市半平太に弟子入り、 数々の天誅事件では先頭に立って人斬りをし、 武市には黙って、陰では京都で勝海舟の護衛もする。
限りなく、アウトローな侍である。 三谷幸喜脚本のドラマ「竜馬におまかせ」では、 反町隆史が無口な以蔵を演じていた。 もう、ピタリである。
以蔵は静かに思考しているようで、実は何も考えていない。 思考の部分は雇い主や、師匠にまかせっきりなのである。
後年、藩からも師匠からも見捨てられ、そこで初めて以蔵に自我が芽生える。 だが、それが仇で、散々な最期を迎える。
竜馬は、まだいい方である。 だが以蔵に関しては、もうその一生が悲劇としか言いようが無い。 だが、ただの足軽では、以蔵は我慢ならなかった。 尋常ではない剣の腕前が、彼の人生を狂わせたのだと思う。
今の時代に彼が生まれていたら、一体何をしていただろう。 読後ふと思った。
2002年08月11日(日) |
ベトナムコーヒードリッパー。。 |
今日は、母の入院先の病院に寄ったあと、そのすぐ近くにある沢田珈琲に寄った。 石造りの蔵を改造して作った珈琲店で、自家焙煎の珈琲を出している。
最近、気になっているベトナムコーヒーとカボチャのケーキをオーダーした。
ベトナムコーヒーは、硝子のカップを使い、 コンデンスミルクに濃い目のコーヒーを注ぐので、二層になる。 コンデンスミルクが入っているが、深焙煎のコーヒーなので、 甘味と苦味の配分が上手い具合にMIXされて、ちょうど良い味になる。
芸術の森のjazzfesに来ていた、ワゴンカーのコーヒー屋さんが出していた、 アイスのベトナムコーヒーも美味しかったが、今日のHOTベトナムも美味しい。
帰りに、レジの近くに、ベトナムコーヒー用のドリップキットがあった。 ベトナム製のステンレスドリッパーである。 450円。買いである。
そこの豆も一緒に購入して、早速家でやってみた。
ドリッパーをカップの上にのせ、コーヒーの粉を入れて、 網のようになった押さえの金具を上から軽く締めて、 お湯を注ぐだけで、コーヒーが抽出される。 一人分しか落とせないが、やってみると簡単でしかも意外に美味しいので驚いた。
私が小学生の頃は、家ではコーヒーをネルドリップで落としていた。 今でも、ネルが一番おいしいのでは、と思う。 ではあるが、ネルは、扱いがちと面倒で、水に浸けて置かなければならないし、 目詰まりが、あまりにひどくなると、はいさようならである。 のちに、jazz喫茶でバイトした時はネルドリップだったので、 その経験は役に立ったが、今ではそこもペーパードリップになった。
最近はずっとペーパーで落としていたので、 お湯を入れるだけで出来るなんて、と思ったが、 豆の焙煎が良い状態のせいもあるかもしれないが、美味しく出来た。
偶然見つけた、めっけものであった。
この夏は、雨の日が随分と多い。 日記にも雨の日が、幾度となく登場している。
私は、眺めているだけなら、雨の日が好きである。 今夜は霧雨だった。
街中が、霧吹きをかけたように、薄い靄がかかっている。 それが風で揺らぐと、霧の方も斜めに揺れて綺麗である。
さながら、繊細な極上のシャワーのようである。 ヘッドライトがあたると、水の微粒子が細かく光る。 夜の街に、ベールがかかった様である。
しと。しと。と間合いを取って、茂った街路樹から水の粒が落ちる。 人も、ビルの硝子窓も、霧で濡れている。
海沿いの港のある街のように、高い湿度に耐え切れなくなって、 ふと出現したような霧が、札幌の街全体に舞い降りて、煙っている。
傘を思わず忘れてしまい、霧雨にあたっていると、 身体には毒かもしれないが、意外と不思議な感覚に出会う。 歩いているのは都会なのに、感覚だけが森の中のようなのである。
都会の霧雨が、何か違う感覚を呼び起こすのだろうか。
さて、たくさんの人と出会う日は充実した日になり、それなりに楽しい。 だが多少、精神が疲労する。
帰宅して、ワインを飲みながら、胡桃のパンを焼いたのを食べつつ、 テレビのニュースを見ていると、また考えてしまう。 今日は、考えないようにしようと思っても、思考に入ってしまう。
そうなってくると、やはりヘッドフォンをかける。 一度、音楽に耳を傾ける。 そうすると、耳からの情報の方に気が向くので、いらない考えをしなくて済む。
今日は、明日ラジオで特集する鈴木重子さんのベストアルバム。 限りなく優しい声の人である。 ちょっと、感情に声が揺らぐ時があるが、それも彼女の人間性が出ていて良い。
あんまり音が良いので、日記が書けなくなる。 耳に気が向きすぎて、文章の思考が出来なくなるのである。
ふとヘッドフォンをはずしてみると、どうにか、今日の心の疲れも消えていた。 確かに、音には治癒力があるのだなと思う。
今日は、もう立秋だそうである。
心なしか、一段と涼しくなった。 夏の終わりのような、ちょっと寂しい感じがする。 蒸し暑い感じはすっかり消えてなくなり、カラッとしたお天気である。
今日の昼、出来上がった梅ジュースを瓶に移し変え、残った梅を蜜煮にした。 両方とも、甘酸っぱさが身上である。
梅ジュースは水や炭酸で割って飲んだり、ブランデーに入れて飲んだりするが、 それ自体は、お酒を飲めない大人や子供も飲めるので、 ゼリーなどにしても良く、利用範囲が広い。 夏の疲労回復にも、キリっとした飲み口でなかなかいい。
梅の蜜煮は柔らかく煮るが、思いの他、味がはっきりと出る。 もっとぼやけた味になると思っていたが、これが意外とおいしい。 よく和菓子で、桃山の中に、梅の蜜煮が入っているものがあるが、 ああいう味である。 少し取り置いて、お正月用に冷凍しようと思う。
その頃には、梅酒の方もちょうど飲み頃で、非常に楽しみである。
今日、幾つかのニュースを見ていて、 企業の良心は何処に行ってしまったのだろう、と思う。 ボーダーでも話題に上がった。
高度成長時期は、欧米諸国に追いつけ追い越せで、 どの企業も、よりよい製品作りや、商品管理に全精力を傾けていたと思う。 今でも、企業努力を忘れていない会社はたくさんある。
しかし、である。 たった一人の不祥事で、悲劇は起こるのである。
何千、何万とたくさんの社員を抱える大企業であっても、 その中のただ一人の決断した、ただ一つのことで、 組織全体が、破滅に向かうのである。
大企業の看板が、揺るぎのない不動のものと云う時代はすでに終焉してしまった。 もうすでに、企業にも個人の時代が来ているのである。 発言権があればあるほど、個人責任は重い。
次から次へと、大企業の不祥事が明るみに出る。 そういう大企業の、何も知らない良心のある多数の人々は、 寝耳に水のはずであり、「何故?」と思っているに違いない。
問題意識が薄いのか。 それとも魂を買い付けに、悪魔が訪問したか。
昨日、wakaさんがいらして、藤沢周平と司馬遼太郎どちらが好きか?という話題になった。
私は司馬遼太郎を読んでいない。 買った事がないのである。 前にも書いたが、いわゆる歴史小説がダメなタイプである。
永井路子や白州正子の歴史エッセイなら、好きで何冊か読んでいる。 杉浦日向子のお江戸物も大好きである。 杉本秀太郎の「平家物語」も、こよなく愛している。 夢枕獏の「陰陽師」シリーズも、おもしろくてずっと買っている。 池波正太郎の美食エッセイも、よだれものである。
だが、司馬遼太郎と山岡荘八は、何故か手が伸びない。 何故かは、わからない。 歴史上の巧みな政略家関連の題名の背表紙に惹かれないからかも知れない。
それとも、ただ単に、長編が苦手だからなのかも知れない。 雷蔵が表紙だから(笑)と購入した中里介山の「大菩薩峠」も、 読んだのは、ほんの数ページ。全部読むとなると全20巻の大作である。 でもその本は、机竜之介に会いに、たまに開いて眺める。
だが、この度一冊も読んだことのない司馬遼の文庫を買った。
「人斬り以蔵」。 私はアウトローな侍が大好きであり、何より短編集(笑)だからである。 でも分厚い。
その他に、藤沢周平「時雨のあと」、白州正子の「夕顔」の文庫本も買った。
うーん、結局、粋好みなのかも知れない。 粋は身を喰うんだが。
2002年08月05日(月) |
真夏の夜の音と空気。。 |
人それぞれに、夏の匂いというものがあるかも知れないが、 夏の音というのもある。
今日の深夜、歩いていてふと、「真夏の夜の音だな。これは」と感じた。
雨上がりの十字路で、車のタイヤがお湿りのあった路面を走る音。 横断歩道ですれ違う、酔客の話す言葉。 街路樹が、風でざわめく音。 遠くから歩いてくる人の靴のヒールが、コツン、コツンとなる音。
耳に聞こえてくる全部が、まるで何かの為に、 一度、録音された音のように聴こえるのである。 その原因は、湿度なのか気温なのかは、わからない。
ただ、まさしく「真夏の夜の音」なのである。 空気も、あの寝苦しい夏休みの夜の空気である。
昼間とって来たキリギリスが一生懸命鳴くので、却って寝づらい。 喉が渇いて、なんどとなく、起きてしまう。 あの遠い夏休みの夜のような、そんな空気感なのである。
気温と湿度に関してだけ言えば、あまり昔と変わらない真夏の夜なんであった。
2002年08月04日(日) |
倶知安JAZZフェスの巻。。 |
今日は倶知安でジャズフェスティバルを見てきた。 行きは、午前中の札幌発のJRニセコライナーに乗った。 短い時間だが、久々の一人旅である。
2時間近く乗ることになるので、 先日買った、渡辺保の文庫本「女形の運命」を持って行った。 車窓の風景に飽きた時、ふと広げるためである。 渡辺保は、私のお気に入りの劇評家で、語り口や文章が味わい深い。 歌右衛門についての本であるが、舞台芸術論でもあり、 車中で、さらっと読みながらも、舞台について色々と考えさせられた。
さて、倶知安駅に着き、車内のドアが開いた途端、 外から、jazzフェスのライブの音が聴こえる。 下車して、ホームに降り立って見ると、 会場が線路の向こうの、すぐそこなのである。 周りにビルがないので、青い空も大きく感じる。
アメリカの高校生の選抜JAZZブラスバンドから見たが、 まさしく金の卵たちである。 ここからプロのミュージシャンになる子も多いらしい。
アナ・カランは、クラヴィな「おいしい水」から始まり、 その後に続く、安定したスタンダードボサノバのラインアップは良かった。 一曲だけドラムスとデュオでやったが、途中サンバテイストになった時、 歌舞伎じゃあないが(笑)、紛れもない「お家芸」だと思った。 他の国の人には、真似できない「何か」があるのである。
それは、言葉の持つリズム感であったり、生活習慣であったりするのだが、 何よりも、小さな頃から育った環境は恐ろしい。 図らずも、日本人でありながら、洋楽の分野を目指しているものにとっては、 それは少なからず、一つの壁であり、課題となる。
小曽根真とゲイリー・バートンのデュオは、 kitaraでやった小曽根真ソロコンサートの完成形で、両方聴けて良かったと思う。 クラシカルな曲を取り上げても、最近流行りのイージーなネオクラシックに終わらないところが素晴らしい。 結局この二人、どんな曲をやっても凄い、という証明を突き付けられた感がある。 最後はノラ&オルケスタのサルサとセッション。大盛況で閉幕した。
帰りは、会場で落ち合った知己の方の車に同乗させてもらい、 非常に有り難かった。
真夏の休日の短い旅である。
2002年08月03日(土) |
野外LIVEの敵。。 |
今日のラジオは、大通のビアガーデンからの公開生放送であった。
これからマイクをつないで、さぁリハだと思ったら、 雨がぽつぽつと降ってきた。 昨年も大通りで公開生をやったが、私の日は晴れた。 何年か前の大通りも、途中から晴れた。 だが、今日は雨。
結果、リハもライブも取りやめとなった。
番組が始まった途端、雷雨になった。 ざぁっと来たので、多分、後から晴れるだろうと思ったら、案の定晴れた。 ライブが出来なくて、残念ではあるが、こういう日もある。
ただ、不幸中の幸いは、客席に屋根があるせいか、 雨が降っても、お客様があまり席を立たないことだろうか。 お客様がいると心強いものである。
さて、明日は倶知安の野外コンサートに出かけるが、晴れてほしいと心から願う。
昨日から、すすきの祭りが始まっている。 今日は、花火大会もあり、人出が凄かった。
街中、浴衣だらけである。 きちんと着こなしている人は少ない。 だが、様々な柄や色の浴衣を見ていると、雑踏の中においても、心が和む。
ピンクや黄色は色も鮮やかで、最近はオレンジ色もあり、 日本の浴衣も、本当に変わったものだと思う。
その中に、昔ながらの藍染で、流金が白く染め抜いてあるのを着ている人がいて、 羨ましいほど、粋で素敵であった。 色や柄の選び方から、着付け、まとめ髪など、色々と差が出るものである。
そうは言っても、夏の浴衣は自由な感じも捨て難い。 いたってリーズナブルな、着物の普段着である。 約束事も少ない。
だから、初詣の着物は減っても、浴衣は増えて行くかも知れない。 子供から大人まで、誰もが楽しめるのも良い。
何らかの形を取ったにせよ、こうして着物の文化が残って行くのは、実に喜ばしい事だと思う。
今日、仕事の合間、コンビニで初めてチケットを購入した。
ディスプレイ画面で、まずコンサートを検索し、購入画面に移る。 直接購入だと、その場で予約票が出て、レジで支払い後、すぐに発券される。 思っていたより、簡単で驚いた。
当初、ちょっと予定が立つか立たないかの日程のコンサートだったので、 「あのチケット、まだあるかなぁ」ぐらいの軽い気持ちで、 画面をタッチングしている内に、あれよあれよと言う間に、購入出来た。 なるほど、簡単で便利である。
プレイガイドだと営業時間が限られているが、 24時間営業のコンビニだけに、いつでも購入出来るのが嬉しい。
以前、広告WEBデザイン会社の方とお話した時に、 「キーボードなしのコンピューターが出たら、誰にでも使えて、もっと普及する」 という話題が出たことがあり、これはちょっとそういう日も近いかも知れないと、 この発券システムを使ってみて思った。
コンビニ恐るべし、である。
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