あまりにも日記の間隔が空いた。一つ前が四月二十六日。指折り数えて五ヶ月弱。一年前ぐらいまで少しずつでも書いていたから、(それ以前は毎日)、まるで何年も書いていなかったような気になる。
だけどネットには書きつづけていて、それは主にtwitter。短いけれど考える作業は続いている。 それと連載の小説は書きつづけている。(もうどれくらいになるだろう。)
で、四月の頃と変わったことはデスクトップ以外にノートパソコンが一台増えたこと。
そして(これに限らずなんだけれど)いろんなデータのほとんどを外部にアップして、つまりクラウドに放り込んで、パソコンそのものを軽く軽くしている。
開けて、すぐ起ちあがるように。 検索も早く動くように。 だからこのノートパソコンは気に入りの音楽を数曲入れている以外は、極力ソフトもインストールせず、ほとんどモノカキ専用になっている。書いたデータもすぐに外に出してしまう。
パソコンを追加した理由には愛犬ハナの老衰のこともある。機動性が必要になったから。でーんと座ってられないんだ。
とにかく寄り添っていないとどこで倒れるかわからないし、たとえ尻餅でも自分の力では起きあがれないものだから。
だけど、おかげでパソコンをどこでも使えるようになったのが日記を再開しようとした理由の一つ。
理由はもう一つあって、最近集中して読んでいる堀田善衛さんの「定家明月記私抄」の影響。 藤原定家の「日記」である明月記を堀田さんが丹念に追った著作。(続編も含めて文庫であります。)
平安末期から鎌倉時代にかけてかかれた定家の日記は漢文で書かれていて、ふつうとてもじゃないけれど読みこなせない。堀田さんは七年かけてスペインのバルセロナでこれに取り組まれた。
定家と同時代を生きた鴨長明の「方丈記」と、鎌倉幕府の「公式記録」愚管抄、そしてほかの公家たちの残した日記も傍らに置いて、だ。
平家滅亡後の、いわば「物語が終わった後」、テロの嵐が吹きすさぶあまりに凄惨な鎌倉時代の姿を、ぼくは生き生きと知ることができた。
そしてやはり書き置かねばなるまい、と思ったのだ。 時代に対する姿勢を自分で確認するために。たとえ毎日ではなくとも。 書く自分を創り出すために。
堀田さんも指摘されているけれど、この時代は「日記」がとにかくよく書かれた。今とよく似ている。 ただ誰もが公開を前提としていないだけで。
おかげで定家のような時代に対してディタッチメントを貫いた男もいれば、自由人であり続けた鴨長明もおり、この二人よりもあきらかにスケールの違う生き方をした西行がいたことを知ることができる。
「歌」を残そう。和する歌を。 さもなくば呟きを。 あの凄惨な時代をくぐり抜けた言葉残っているように、21世紀の「凄惨」をくぐり抜ける言葉が書ければ、と考えた次第だ。 (堀田さんは、定家の時代と自らの第二次世界大戦をくぐり抜けた時代とを重ね合わせても見せる。)
そしてネット上での再会もあった。 懐かしい名前。 ある日メツセージが置かれていて、ぼくはその人と何年かぶりに言葉を交わした。
まだ言葉は繋がっていた。
詩はイデーでは書けない。 詩は言葉で書く。 そんなマラルメとドガの話も「定家明月記私抄」には書かれていた。
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