2007年12月19日(水) |
「自分」を超えていく |
いつの間にか暮れも押し迫り、気忙しい。 喪中のために正月の用意をしないのだけれど、大掃除はしなければ。 あいまあいまに少しずつ進行中。すでに障子二枚は張り替えた。
さて、昨晩、NHK教育テレビの福祉の時間で作家の山本文緒さんへのインタヴューを見た。 山本さんは直木賞受賞後にうつ病を発症し、そのご離婚と再婚を経験されている。現在も投薬治療中で完全には治っていないと語る顔にはまだ病への緊張感がありありと伺えた。
様々な要素が原因として絡みあっているように思えたのだけれど、「書ける自分がいればいい」という認識というか、その意識が彼女を追いつめたように思えたのだった。その言葉は山本さんの口からから何度も出た。 「書ける自分さえいればいいとずっと思ってきました」というふうに。
しかし、症状はすすみ、文筆活動はとうとう停止される。パソコンの画面を見ただけで言いようのない嫌悪感に襲われたという。あれほどそれさえあれば、と考えてきたことができなくなってしまったのだ。 それからは治療である。 「書く自分」だけでなく、例えば「生活する自分」というような「何かをする自分」というのをまるで丹念に拾っていくように自分を取り戻されたようだ。
それまでは自分が何をどう感じたかをノートに書き連ね、それを元に原稿を書いていたのだけれど、これから本当の意味でフィクションが書けそうな気がする、といっておられた。それが強く印象に残っている。
自分が、ではなく、自分の設定した架空の人物ならばどう感じるだろうか、という想像力の拡大を山本さん自身が強く感じられたのだろう。
そしてやはり昨晩NHKの「プロフェッショナル」で東京都立現代美術館のキュレーター、長谷川祐子さんのお話も興味深かった。 キュレーターとは展覧会の企画立案制作すべてにかかわる、いわば展覧会の指揮者であり現場監督でもある。
彼女の言葉でしきりに出てきたのが、「アートは人を『自由』にする」というもの。「アートは自由への扉」「アートは人の心を開かせる」とも。 9.11直後のイスタンブールでの展覧会のキュレーターも見事にこなし、絶賛をあびたのだけれども、それについても「魂の試練の時こそアートは人に救いと癒しを与える」と。 その信念は微動だにしないようにみえた。
「人に見せてこそ」のアートなのである。自分のためではない。まさに人のために全力を尽くす。 長谷川さん個人の感覚が光る時はアーティストを選ぶ時だろうか。彼女は自分の直感を信じている。それは上記の信念を持つ同志を選んでいるように思えてならなかった。
さて、今夜、連載の小説を「おとなのコラム」へ送った。 前回の「マリア」の続編である。金曜日に掲載される予定。
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