2007年05月06日(日) |
「肘掛け椅子」という選択 |
『わたしの夢みるもの、それは人を不安にしたり、気を滅入らせるような主題をもたない、 均衡と純粋、そして静寂の芸術である。 すべての頭脳労働者、例えばビジネスマンや文筆家にとっても、ひとつの鎮静剤、 頭脳の鎮静剤になるような芸術なのだ。 その肉体的な疲れを癒すのが心地よい肘掛け椅子だとしたら、 まさしくその肘掛け椅子である』
このアンリ・マティスの言葉を、今年になって発見し、ノートに書き、何度も反芻して読み、 画ではなく、文章に活かそうと決意したのは三週間前だった。
そのころ、最近、文芸誌で連載が途切れている庄野潤三さんが、昨年、再びの脳卒中で倒れられ、 闘病中であることを知った。 最初に脳出血で倒れられて以来、健康に留意され、歩くことを日課として続けてこられたのに、と 残念でならなかった。
マティスの言葉の大意は、まさに庄野文学のために書かれたような言葉である。 或いは庄野さんのようなスタンスの先人をぼくは探していたのかもしれない。
或いはマティスはこうも言っている。 『私は、あたかも海と空を前にしているように、ふつうの空間と事物を表現します。 つまり世の中の最も単純な事物を表現するのです。 だから私の絵に実現された統一を説明することは、いかに複雑であろうと 私には難しくありません。 というのはそれが自然になされたのですから』
これはますます、庄野さんの作品世界に通じる言葉である。
庄野さんのハートウォーミングな静謐さに満ちた、 スローライフの極みのような作品たちに触れるたびに ぼくはたしかに「肘掛け椅子」に腰を下ろして、くつろいでいた。
何も感じられない人もいるだろう。 むしろそういう人の方が多いかもしれない。
「フック」やら「ひねり」や「転」は小説の鉄則である。 庄野さんの一連の「家族小説」には意図された「それ」がない。 ぼくなどには、だから「とてもいい」のだが…。
しかも少なくない読者に支持され続けている。 その理由は何か、と考えると、やはり庄野さんの小説が「肘掛け椅子」なのだと思う。
ぼくはネットで、少しずつ書き続けているけれども、 ご近所から「新しいご本は?」と再び声をかけられた。 また新しい本を作ろうと思う。 それが「肘掛け椅子」たり得るかは分からないけれど それをめざそうとおもう。
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