散歩主義

2006年04月22日(土) ネットの「私」はどこにいくのか

平野啓一郎さんの「顔のない裸体たち」のこと。

この作品は単行本になる前に「新潮」で読んでいた。今年の彼の作品は出来るだけ早く読み進めていきたかったので、掲載された文芸誌で読んできた。

いくつもの短編群の中で、もっとも長く、また核となるのも「顔のない裸体たち」だと思う。
だけどはっきりいって本作を読むのはかなり苦痛だった。ネット上で起きた「事件」からリアルな主体たる人間が揺さぶられていく物語だったからだ。

主人公たちは性的な欲望を暴走させる。何も歯止めがない。
何故か。タイトルにあるように自らの「顔がない」、つまり何者かというところをカモフラージュ出来るからだ。
しかし、それがどこの誰だかわかってしまったら…。
読んでいて苦痛に感じたのは、物語りが実際あり得ると感じたからだろうと思う。

平野さんはネットに潜む心理を剥き出しにして見せた。それが何か生々しく、それが嫌で顔を背けたくなったのかもしれない。
しかし、提起されている問題は苦々しいほど深刻だと思う。

今日の京都新聞に平野さんの本作に対する発言が書かれていた。
その前段でこう語っている。
「今の作家は2種類に分離されつつある。ネット上で起こっている出来事がピンとくる作家とこない作家に。少なくとも若い作家はネットでの問題を深刻に受け取るべきです」


では問題意識はどこにあるのかというと次のようになる。
「ネット生活が定着したことで『実生活の自分』と『ネットの中の自分』の境界が内面化してしまった」
「人間の内面で分裂が起きている。つまりネットは、意思によって統一されていたはずの『近代的な主体』の概念を脅かしたのです。だから、当初大きな拒絶反応があった」

で、平野さんの興味は
「そうした自己の分裂状態の継続は可能なのか」ということだという。

実際にネットにかなりかかわっている自覚がぼくにはある。
だから、そのあたりのことは自分でもよくわかる。意識はしていないけれど分裂した自己というのもたぶん経験したと思う。匿名の誰か、になるということである。
だけど分裂した自己にまかせるような欲望がなかった。そして、ある時点からぼくはネットに対してかなり「構える」ようになった。

だけどこれからどうなるのだろう。
ネットにいる人たちのそれぞれの手で、ネットそのものは刻々と変わっていっている。

ネットはどこに行き着くのか。もちろんポジティブな側面も含めて見つめていたいと思う。


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