本棚の整理をしていたら文庫の「文章読本」がでてきました。 「文章読本」といえば谷崎潤一郎ですが、これは吉行淳之介さんによるアンソロジーです。 収められている「文章に関しての文章」は谷崎潤一郎、伊藤整、萩原朔太郎、井伏鱒二、宇野千代、中野重治、佐多稲子、川端康成、三島由紀夫、中村真一郎、野間宏、島尾敏雄、小島信夫、安岡章太郎、吉行淳之介、丸谷才一、野坂昭如、古井由吉、澁澤龍彦、金井美恵子という面々によるもの。
短い文章がずらりと並んでいます。が、そのなかでも読むのに難渋するものもあれば、ふむふむと読み進めるものもあり、自らの能力は棚に上げて、なんと多様な考えがあるのだな、と楽しんでおりました。
今、谷崎の本を集中的に読んでいることもあり、「彼の」(こういう人称代名詞を谷崎は攻撃しています。自分も初期に多用していたと認めつつ)文章に対する考えに注意が向きました。
おもしろかったのは、自分に向いたスタイルを見極めてから文体を選ぶべしとして、そのスタイルについて述べた部分。 口語の言文一致の作家においてさえ、和文脈好みと漢文脈好みがある、と。それは酒でいえば甘口派と辛口派でもあり、朦朧派と明晰派ともいえ、流麗派と質実派でもあり、女性派と男性派でありなおかつ、だらだら派とテキパキ派で、情緒派と理性派、さらに手っ取り早く言えば源氏派と非源氏派であるというのです。
「源氏物語」に対してどういう感想を抱くかでスタイルが決定的に違う、と。 森鴎外などは源氏物語のどこがいいのかさっぱりわからん、という御仁であったそうです。源氏派としては泉鏡花の名がまっさきにあげられていました。 谷崎本人は青年期は漢文風に興味を抱いたものの、歳をとるにしたがって完全に和文の方へ向かう自分を止められなくなったと書いています。
このアンソロジーの後半に収められている丸谷才一氏の、そうなった原因は松子夫人の恋文であろうという推理もおもしろかった。現在の谷崎研究では谷崎潤一郎における松子夫人の存在がいかに大きかったかが語られてもいます。書き上げた作品を松子夫人ら読んでもらい、夫人の感想をとても尊重していた云々…。
で、時間は飛んで現代の作家はどうか。 だらだら派とテキパキ派はあるかな、むしろ翻訳、非翻訳という区別の方がわかりやすいかな、といろいろに思いをめぐらせていたのでした。 源氏、非源氏はもはや有効ではないのかも、などと。
ぼくなどこの日記でさえ、あいかわらず「だ」「である」調で一度書いて、「です」「ます」に書き直すことがたびたびあります。
蛇足。 先ほどの丸谷才一氏がてがけたジョイス「ユリシーズ」の翻訳について安岡章太郎氏がこてんぱんに書いています。確かに「文体」についてジョイスにかかわったものはデリケートな物言いを要求されるのでしょうけれど…。
というかこの二人を同じ本に収めてしまう吉行さんも凄い!ですよ。
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