散歩主義

2006年01月10日(火) ああ詩人よ

ひとりの女流詩人の詩に関する記事をじっと読みました。
たまたまです。それほどきっちりと読んだことのない方でした。
平田俊子さんといいます。

記事を抜粋して写しておきます。

<私は平凡になりました/平凡な女になりました/
 いいえもともと平凡ですが/平凡ゆえに/
 平凡であることを認めたくなく/ほかの人と多少違いはしないかと/
 平凡にうぬぼれておりました>

 平田俊子が2004年に出版、萩原朔太郎賞を受けた詩集「詩七日」のなかの「十四月七日」はこんなふうに始まる。
「書いても書いてもつまらない気がした。『わたしは平凡な人間だ』と開き直ってやっとできた詩です」
 自分は特別な存在だと思いたい。だからこそ表現もしたい。だがそう思うことこそ平凡なのだと平田は気付く。
「どこまでいっても平凡からは逃れられない」と。
             (京都新聞1月10日朝刊より)

「詩七日」は「詩なのか」にかけてあるのと同時に、詩誌の連載のために毎月七日に詩を書くことを自らに課したことからきています。

 ああそうだな、と思いました。女を男と書き換えても成立する詩だけれど、はたしてこう書ける男がいるかな、とも。

 さてだとしたら平凡にヤスリをかけて尖らせていくのでしょうか。平田さんのその後の詩を読みたくなりました。

 彼女の歩みは詩集そのものに現れています。別居夫婦のこと、離婚のこと。苦しい時、詩を書くことで自分を支えていた、といいます。
 これ以上底割れしそうにない心がころん、と転がっているようです。
 そしてこの「詩七日」の詩に到達したわけです。

 もともと言葉遊びの詩の人だと勝手にイメージしていたんですが、読まないと駄目ですね。反省。
 もちろん言葉遊びの詩で面白い詩はすでに詩集としてありますからそちらを読めばいいわけですが。

 イメージの詩を書こうとしていた矢先にずんっとやられました。
そしてイマジズムでも言葉遊びでもシュルレアリスムでもなんでもいい、ああ詩人よ、と思ってしまうのです。

それによって自分を支える人よ、と。

平田さんの言葉
「本当のことを書いてもうそに見えてくる。百パーセントのうそも難しい。詩を書きながら引き裂かれる感じがあるんです」

現実と詩との距離についての言葉です。
なんども読んでは考えています。


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