| 2004年09月06日(月) |
「何故」そして「何処へ」 |
吉行さんの「暗室」をもう一度、最初から読みなおしました。
第二次世界大戦を子供の時に経験している世代の人にはよく、「おまけの人生」とか「一度死んでるからあとは付録」というような人がいますけれど 「暗室」にでてくる「すべてが虚しいと分るために、生きている」という吉行さんの呟き。 そしてその言葉をもたらしたゴーギャンの絵。 そして娼婦のつぶやき「ついでに生きている」。 それらがひと繋がりでぼくにある感覚をもたらしました。 人生の底が抜けている感覚…と同時にそれだけではないなにか生々しい感覚です。
(「蛇にピアス」という作品を徹底的に考え抜くと「暗室」になる。これはぼくの説ですが。)
吉行さんのクレーの絵への偏愛は有名ですけれど、「暗室」ではゴーギャンの絵が象徴的に扱われています。 それはゴーギャンを代表する大作「われら何処より来たり、何処にあり、何処にいくや」。
人生が絵巻物のように右から左へと展開しています。タヒチの民俗、風俗に素材求めています。見た瞬間、ああ、これは曼陀羅だ、と思いました。 全体を覆う暗い色。吉行さんが「死の匂いの漂っている」と形容した色はペロネーゼ・グリーンとブルーです。象徴的な女たちのポーズの背景を覆います。 夜明け前と日没後の色、といえばイメージできるでしょうか。
その絵を見ながら、柳美里さんのインタヴューを思い出しました。発売されたばかりの婦人公論の巻頭です。 一連の作品で、東由多加氏の壮絶な癌との闘いを、ともに闘い、そして自身は出産し、生きていく物語を書ききった彼女が、なんと1800枚の長編を書いたのです。それをめぐるインタヴューでした。
東さんが亡くなる前日に「…あの子の誕生とおれの死を通して、きっと観念ではない生と死を書けるようになる」と語られたと。その意味が今わかると柳さんはおっしゃいます。
そして「構想はしたけれど構成はしなかった」という小説が書かれ始めます。まるで登場人物の魂たちに導かれるように。そして自らの魂の闇に踏みこんだと、おっしゃいます。
彼女は「著者はメッセージを持たないほうがい」といいます。本というのは商品になった時点で読者のものです。どのように読まれても誤読ではない、と。 ただ問いだけが置いてあるのです。彼女によれば 「何故生きて、何故死ぬのか」という問いが。
そして彼女はそこに立ちすくんでいるし、その問いの前に立ちすくんでいる人に向けて書きたい、といいます。たぶん答えのない問いの前で。
「何故生きるのか」「どこへ行くのか」…。
「いつ死んでもいい」という地点から「暗室」へ、あるいは「魂の闇」へ歩んでいく。 小説家たちの渾身の作業は、モチーフこそ違え、一つの河のように繋がってはいないかと、感じています。
「何故」そして「何処へ」
*「暗室」吉行淳之介 *「8月の果て」 柳美里
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