散歩主義

2004年07月24日(土) 悲哀とは

今、とても読みたい本が二つあります。

ひとつは西田幾多郎の「善の研究」。
哲学書だから手におえるかどうかわからないけれど、生きている間には、読んでおきたい本です。
ぼくの散歩コースにたまたま彼の墓所があったことが始まり。おや、こんなところに彼のお墓があるのか、というところから彼のことを調べはじめて次のような言葉を見つけたんです。

『哲学は存在の驚きでも、知への疑いでもなく、哲学の動機は人生の悲哀でなければならない』

この実に文学的な言辞にはっとしたんですね。

彼は西洋哲学を学びながらも、魂の救済を求める内的な関心へと、それは彼にとって禅なのですが、そこへ踏みこんでいかれた。
彼の墓所は彼が参禅したお寺にあるのです。

実際に彼の人生はこれでもかというぐらいに降りかかる不幸を振り払うように続いていきます。その行きついた末に書かれた「善の研究」。
岩波文庫の不滅のベストセラーを読んでみたいと思います。
まったくの文学的な動機でありますが。

もうひとつは長島有さんの「パラレル」。
これはなんとしても読みたいです。
立ち読みの段階で、泣きそうになりました。

ぼくの泣く本というのは、なんてことない普通の事が書かれた本が多いから、世間さまとは「ずれ」ていると思うけど
これはいいです。

ところで、西田幾多郎の有名な一言を書いておきます。

…善とは一言にていえば人格の実現である。これを内よりみれば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するというところに至らねばならぬ。
外に現れたる事実として見れば、小は個人性の発揮より、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達するのである…

これは実は「パラレル」にも通底ていしていることだとぼくは思うのですけれどね。「括り」が大きいとか小さいとかじゃなく。


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