斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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2005年03月15日(火) |
新聞購読をやめることにした |
僕の大学での専攻は「新聞学」である。 ジャーナリストになりたかったわけではない。 高校生の僕は、法律や経済などの専門性を持った学問を選択する決断ができなかったので、学際っぽい「新聞学」を選択した。
新聞学専攻なので、ジャーナリズムは必須科目だった。 と、いうか専門科目はジャーナリズムが中心である。 僕の友人もジャーナリスト志望者が多かったし、実際にジャーナリストになった友人も多い。 そのような環境にいたので、新聞というメディアに対する思い入れはある。 僕は子供の頃、大人になったら新聞の購読数を増やそうと思っていた。 朝、出社前にコーヒーを飲みながら新聞5紙を読む、という大人像に憧れていた。
でも、実際に新聞5紙を購読可能な今、僕は、新聞の購読そのものをやめようとしている。 「紙媒体の新聞」に価値を見いだせなくなったからだ。
僕にとってニュースソースとしての新聞は、かなり以前から価値を失っていた。 僕が新聞を読み続けていた理由は二点あった。
・ノイズの収集 ・報道の重要性の確認
・ノイズの収集
僕が自律的に知りたいと思う情報は、朝刊や夕刊を読むまでもなく、配信されてくるし、自分からも収集する。時差の大きい紙媒体である新聞から自分の求めている情報を得る、という事はもう10年近くない。僕が新聞に求めていたのは「ノイズ」である。新聞に掲載されている記事、広告の大半は、僕が「求めていない情報」である。だが、大発行部数を誇る新聞に掲載されている以上、その情報はそれなりに重要なのだろう。僕は、自分が「蛸壺化」することを避けるために新聞を読み、ノイズを収集していた。
・報道の重要性の確認
自分の専門領域において、新聞から情報を得る、ということはほとんどない。僕にとって必要なのは、自分に必要である情報が新聞に掲載されていた場合、どのページに、どの程度のスペースを取り、どのような見出しで報道されているか、であった。記事の内容、論調は、ほぼ関係ない。記事の内容には興味がなく、ただどの程度のページを当該記事に割いているか、が僕の興味の対象だった。同僚から「新聞に見ました?」と言われた場合、それは、ニュースとしてではなく、「とうとう新聞にまで出てしまった。大変だ」という意味である。
僕は、ここ数年、「ノイズの収集」、「報道の重要性の確認」という二つの目的だけのために新聞購読を続けていた。 だが、この二つの目的は既に他のメディアで代替可能である。
僕は、テキスト系のニュースはウェブ、メールニュース、映像系はニュース番組をHDDに録画して毎日見ている。 加えて、モバイル放送にも加入したので、僕の脇では常に最新のニュース映像が流れている。
ジャーナリズム、マスメディアの価値がなくなったとは思わない。 これからも重要な役割を果たし続けるだろうし、果たし続けて欲しい。 「紙媒体の新聞」も「流し読み用のメディアフォーマット」としては、最も洗練されたものだと思う。 ただ、個人的には「紙媒体の新聞」を購読し続ける理由がなくなったのである。
「紙媒体の新聞」の購読をやめようと思いはじめたもうひとつの大きなきっかけは、「捨てるのが面倒だから」、である。 地下鉄サリン事件以降、首都圏では駅からゴミ箱が撤去された。 読み終わった新聞を駅で捨てられなくなった。 新聞は会社なり、自宅まで持ち帰らなくてはならなくなった。 自宅に溜まった古新聞は重い。 捨てるのが大変だ。 僕の居住するマンションでは、新聞紙は週一回の「リサイクルゴミの日」にしかゴミに出せない。 新聞本紙とチラシは分別しなくてはならない。 著しく不便。 エコロジー云々の前に、面倒過ぎる。 新聞社は、購読者の減少を防止するために、駅のゴミ箱復活(新聞専用ゴミ箱とか)、本紙と一緒に捨てられるチラシの導入を検討すべきではないか?
と、いうことで、「新聞学専攻」出身の僕は、今年度末をもちまして「紙媒体の新聞」の購読をやめる事にしました。
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