斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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Ducatiに乗り始めて思ったことがある。
バイクは「禅」ではないのか? バイクの運転は、両手両足、バランス、視線、頭脳と身体の全ての機能を使う。 特に僕のDucatiのように神経質なバイクの運転は一瞬たりとも気を抜けない。 クルマの運転のように、音楽を聴きながら、カーナビをいじりながら、電話をしながら、おしゃべりをしながら、等という「ながら運転」はできない。 バイクの運転のみに集中せざるを得ない。 あたりまえのことだけれど、バイクは自力では立っていられない。 常に乗る人間からのインプットが必要となる。
バイクの運転だけに集中して走っていると、いわゆる「無の境地」に近くなる。
バイクは常に「死」にさらされている。 高速で走るクルマの隙間をひらひらとかわしながら走り抜ける。 プロテクターを着用しているとはいえ、僕は剥き身だ。 クルマのような鉄の鎧があるわけではない。 エアバッグもABSもない。 僕は、イタリアからやってきた最高時速270キロの鋼鉄の馬に跨り、「無」と「死」の傍らで「禅」を感じる。
バイクに乗ること、それはすなわち「禅」ではないのか?
同じことを考えている人がいるのではないか、と思って検索してみたら、あった。
「禅とオートバイ修理技術」ロバート M.パーシグ (著)。
この本は、僕とは異なる視点ではあるけれど、「禅」と「オートバイ」について記述されている。 「オートバイ」ではなく、「オートバイ修理技術」。 ハーレダビッドソンで、米国の2級国道を走りながら、東西の哲学、真理の追究を行っている。 「ロードムービー的哲学書」な本。 ジャック・ケルアック的というか、1960〜1970年代のビートニクの空気も感じる。
デジタルな感性を持っているハズの僕が、1960〜1970年代年代のビートニク的な感性から離れられないのはなぜなのかな?
■禅とオートバイ修理技術 ロバート M.パーシグ (著) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839700524/ ■路上 ジャック・ケルアック(著) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309460062/
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