■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

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2005年05月09日(月) 腰痛体験記(12)

お待たせしました(^O^)/
いつも【腰痛掲示板】でみんなを励ましてくださっている
スージー姉さんの体験記です

彼女も学生のころから
いろいろな身体の不調に悩まされていたようです

だから、不安な気持ちで書き込んでいる人を
ほおっておけないのですね





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病名・症状を赤字にしてみたのですが・・・
いっぱいあるね^_^;


― 生き方の速度を緩めて、心豊かに ―


平成16年7月にTMS理論に出会ってから、体の不調は心の声に耳をかたむけてこなかった結果ということに気が付いて、いまさらながら心と体の関係の深さを思い知った。

現在にいたるまでの病歴の数々をごらんあれ。


小学校5年生のときに、執拗ないじめにあう。一年間ひたすら我慢の日々を送る。ずる休みを繰り返し、成績がガクンと下がったので、家では父の勉強猛特訓を受ける。
父も母もなぜ下がったのかということよりも成績を何とか持ちなおすことに躍起となった。
心のよりどころ、休み場所がない。

このとき「自分を守るのは自分しかいない。いじめられないためには人の上に立つしかない。自分の気持ちをきちんと話せるようにならなければいけない。」子供心にそんな決意をしたように思う。
それまではどちらかというとおとなしくて、できれば目立たずにいたいという感じでいたのだったが、このころから少しずつ変わり始める。


中学に入り、ありとあらゆる場面でリーダーとなる。勉強もスポーツも誰にも負けないようにがんばった。
負けないためにはどんな努力もした。たとえ先輩であっても、負けたくなかった。
生徒数1000人の大規模校のリーダーであることは、自分の価値のすべてであった。
生徒会、放送局、弁論大会の学校代表など、とにかくじっとしている時間は授業中だけ。
また、小学校からたくさんの習い事をさせられてきたので、家にもいない。
競技かるた、習字、ピアノ、週3回の英語の塾、ガールスカウトの活動などなど。
たまに家にいるときには家事をしていたし、弟の幼稚園の送り迎えなどもあり、夕食後には、ちょっと走ってくるとか、とにかく動いていたのだ。
自分のがむしゃらに突き進む人生はここから始まった。

吹き出物は常に出ていたし、口の中は口内炎のアフタだらけで、痛くて食事さえも満足にできないのに人前に出てしゃべる時には、まったく痛みを忘れていた。こういう生活は高校まで続く。
常にあらゆることでトップにいるというのは、孤独なことだった。
特別視され、もてはやされ、アイドル化されてしまうのである。


高校に入って、習い事のほとんどをやめたので、さあ、普通の女の子のように、友達とおしゃべりしたり一緒に帰ったりしたいと思っても、もう人間関係をうまく築けない状態になっていた。

友達になりたい、でもどうしていいのか分からない、そんな葛藤に悩まされるようになった。
2年のころには成績がのびなくなったこともあり、勉強にも集中できなくり、
せっせと本を読み始めた。心の隙間を埋めるためだったのだろう。
1日に2〜3冊のペースで、授業中も机のしたに本を広げて隠して読んでいた。
つまんねえ授業してんじゃないよ、本のほうがよっぽどおもしろいわい、と思っていた。
さぼりも頻繁になったが、罪悪感はまったく感じなかった。

大学に入ってからは、親元を離れたこともあり、徹底的に遊びだす。
授業をさぼってはバイトをし、毎晩飲み歩き、本を読み自由気ままな生活を送っていた。
このころから、夜にせきがでるようになる。
風邪をきっかけにして、いったん出始めると2〜3ヶ月続き、気が付いたらいつのまにかおさまっている。そんな状態はつい2〜3年前まであった。
 

大学卒業後、中学校の教員になる。3年間勤めたが、理想と違う現実にぼろぼろになった。
教えることが好きで教員になったのに、現実は、授業が4、会議、生徒指導、行事、部活が6なのである。豊かで太かった髪の毛は、細くぺしゃんこになり、血圧は常に上が100をきり、放課後は立っているのがやっとの状態になった。低血糖、貧血も、夜のせきもしつこく続いていた。
帯状疱疹にかかったのもこのころである。当時は今のように治療が徹底的におこなわれることがなかったので、胸のあたりに違和感が残った。

親の反対を押し切り退職。体の不調よりも、このままでは自分がいやな人間になると思ったからだ。
大手の進学塾に勤め始める。教えることに専念できることがうれしくて、夜のせき以外は不調は感じなかった。そこで、主人と知り合い結婚。主人は高校の教員となり、転勤生活がはじまった。私は転勤の先々で塾を開業し、そこそこの評価を得ていた。


結婚して2年後から本格的な体の不調が始まる。
最初は、肋間神経痛。あまりの痛さに呼吸もできず、パニックを起こして、床の上をころげまわる。ショック状態で、血の気がすーっと引いて、意識が朦朧となった。
体のあちらこちらを家具にぶつけたらしく、あざだらけ、あごの下は切れてパックリ割れていた。
しばらくの間は、常に頓服薬を枕もとに置くのが習慣になった。いつ、あの痛みがおそってくるか分からない、不安と恐怖にさいなまされた。

その半年後、夕方肩がこったので、首をまわしていたら、ギッギッと音がした。変だなと思っているうちに首の右側がどんどんふくれあがった。
次の日かかりつけの医者から紹介状をもらい、甲状腺の専門医にかかる。
以前から甲状腺内にあったと思われる腫瘍が、何かのはずみでこすれて
中で出血したのだという。2度ほど血を抜くために通院し、甲状腺ホルモン剤の服用を指示される。半年間隔の経過観察となるも、「手術でとっちゃえば終わりなんだけどな。」という医者の言葉に動揺する。

このころから、口の筋肉が動かしにくくなる。押すとこわばってかたくなっており、痛いし、噛み合わせもうまくいかない。矯正歯科に行ってみたが、年齢を考えると長期間の矯正は勧められないのでもう少し様子をみるようにいわれた。

その3ヵ月後最初のぎっくり腰をおこす。マッサージにいって、その場で立てなくなる。家の中をはって歩く。整形外科医に入院をすすめられるも、頑固に自宅療養にこだわり通院しながら、指示通り2週間安静にすごす。薬も注射もまったく効かない。かえって、胃腸は消化不良をおこすし、便秘はひどくなるしさんざんである。

その後、何度か繰り返すが、動いていたほうが早く回復できることがわかってきたので痛みが出ても、薬も使わず、動いてしのいできた。
普段も、できるだけ動くようにし、ウオ−キングを毎日はじめたころからぎっくり腰を起こさなくなっていった。筋肉の衰え、体が硬いからだと単純に思っていた。ヨガもはじめる。

ただ、このころから自分の中で何かのっぴきならない事態が進行している感じがし始める。仕事でトラブルが続いた後から、ねむれなくなった。うとうとするだけである。そのため昼も倦怠感が抜けずすぐ横になりたくなる。


そして、34歳の春、受験も終わり一段落ついたところで、前年の秋から始まった不正出血の診察を受けに行くことにした。毎年ドックは受けていたが、育ての親がなくなったりしていやな予感がしてならなかったのだ。そこで、卵巣腫瘍発見、入院手術となる。病理の結果はくろだった。幸い転移もないし、しばらくの通院で様子をみることになる。

予定通り仕事再開、日常生活をはじめるも、不正出血は続いていたし再発という言葉が頭から離れなかった。健康食品を買いあさり次々と試した。
健康に関する本も読み漁った。不安と恐怖の日々が1年ぐらい続いた。

あるときふと「これは自分に問題があるんじゃないか」と思った。
「自分の今までの生活や、考え方、がこんなにたくさんの病気を呼び込んだのではないか。そうだ。きっとそうにちがいない。では、どうすればいいのか。」
さっそく、倫理やら、精神的な鍛錬、考え方の癖の直し方など、本を買いあさり基本的な生活習慣の見直しと実践をはじめる。感謝のころろ、ありがとうを言葉に出すこと。
挨拶をきちんとすること、早寝早起きなどなどである。
体調が整ってくるに従い、心も前向きに自然となっていった。

35歳からの5年間は、ひたすら自己改革に専念していた。腰痛もおこらなかった。ボランティアをはじめたのもこのころからである。
生かしていただいた感謝の気持ちを、ボランティアをさせていただくことで
社会に還元したいと思ったのだ。

40歳になって、また主人の転勤で移動。
前年に自宅を主人の地元に建てたばかりだったが転勤先は山越え1時間半の場所になり、やむなく2重生活を送ることになる。
仕事は一時中断し、ボランティアに専念する。
ここで暮らした5年間は、病院ボランティアを通して、さまざまな年代のさまざまな価値観を持った人たちとめぐりあい、有意義な時間、人間関係の修行をさせていただいた。


体の不調がぶり返したのはこの生活の2年目からであった。
まず、アレルギー症状がひどくなった。気管支喘息、慢性気管支炎、アレルギー性鼻炎などである。
また、3年目からは、腰痛も再発した。ぎっくり腰を繰り返すようになった。
最後の5年目の秋からは、どんなにストレッチをしても下肢の緊張がとれなくなったのである。
朝は、しゃがむことができなかった。苦しかった。

それでも、やらないよりはと、ストレッチやウオ−キングは続けていた。
冷房の中に入るとビリビリと痛みがはしる。苦しくてたっていられない。
自分の身体をごまかしごまかしすごしていた。
「おかしいなあ、なんでだろう?」
答えが見つからないまま自宅のある主人の地元へもどってきた。

これでもう引越ししなくていいんだと、ほっとしたが、相変わらず下肢のこわばりはとれないまま、歩いていると不意にびりっと電気がはしったように痛みがくるようにもなってきた。
とうとう、整形外科を受診。シップが出ただけで、どこも悪くないといわれた。「やっぱりなあ。今度も自分でなんとかするしかないか。」
とにかく情報がほしかった。この痛みとこわばりがとれるなら何でもしようと思った。


そんな時、あるサイトで「TMS理論」という言葉を目にする。
さっそくTMSジャパンのサイトを検索し、コンテンツをプリントアウトして読んだ。

「あーそうか、そういうことだったのか。なるほどね、すごくよくわる。」
どんどん自分の中に本当に自分が欲していた情報が取り込まれていくのを感じた。自然に乾いたのどを潤す水のようだった。思わず笑みがこぼれた。

納得して座っていた椅子から立ち上がったとき、すっと腰の張りが取れ軽くなった気がしてしゃがんでみると、見事にしゃがめている。びっくりして、長谷川氏に早速メールを打った。
すぐに『腰痛は怒りである』を取り寄せて、むさぼるように読んだ。
今まで疑問に思っていたなぞも全て解けた。まさしくそのとおりと思った。

プログラムの実践は、掲示板でたくさんの人たちの応援とアドバイスをいただきながらであった。慢性化していることもあり、呪いの解除は根気と強い意志が必要だったし
一時的な後退も何度もあった。めげて、できない日には落ち込んだりもした。
そのたびに、掲示板で励ましていただいた。
いまだ、下肢のこわばりは続いているが、勇気を出してまた、前に進む気持ちになったことが自分にとっては一番うれしい。


心と体の関係に何年も前に気づいていたのに、腰痛だけには当てはめて考えなかったことはいまだにおかしいし、不思議でもある。

結局、ベースを理解せずにツールだけやっていたということだったのだ。
ちゃんと、時期は訪れてくれたということなんだろう。
いつも、もっともっと、前に前にと、自分に要求しつづけてきたそんな人生の速度をちょっとゆるめて、なんとなく自分にも周りにも優しくなれたようなこのごろである。

ゆっくり進んでも、せかせか進んでも同じ時間、たいして変わりはあるまい。
新たな夢の実現に向けて私は、再度ようやく一歩を踏み出したばかりだ。

すべての出会いに、感謝。合掌






病名つけたし
痔の手術、腱鞘炎、耳鳴り、めまい
まだあったかも^_^;

やっぱりまだあった
検査をしても原因不明の血尿


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