佐山葉月の日記
うかうか一年。地味でぽやんとした趣味の毎日。

2010年11月14日(日) 拍手更新、そして次の考察

しました!久々に弓道書きました!
ていうか、見返したら前回アップが6月とかで仰け反りました。半年くらい、しかもあんな破廉恥な回で…わああ…
でも今回も何ら進展ないんですけどね。中山さんを出したいっていうだけで考えた話だったりしますし。
楽しんでいただけましたら嬉しいです。


少し前に、雑誌「TH(トーキングヘッズ叢書)」の「純潔という寓話」特集号を立ち読みして、いろいろと興味深いというか成る程なーと共感できる部分が多かったです。立ち読みなんで全部は読んでませんが(買えよ…)
もう特集タイトル自体が結論を示しているようなもんで、純潔っていうのは突き詰めたら寓話というか幻想にすぎないというか。純潔を純潔のまま愛でるためには、たとえ手に入れてもただ見ていることでしか保てないものであるわけなんで。なので、純潔を愛でるが故に汚す、という行為は、最大に矛盾しているんだけど、最大に(破壊的な)喜びを得られるものかもしれないなあと。
そして純潔というのはイノセント(無垢)や幼児性やらとも通じるものなんですが、それに対する憧れおよび畏怖が、過剰な愛情や破壊行動につながっていく、という、幼児趣味その他の所謂アングラ芸術の精神が、そう考えると妙に理解できるなあと。
収録されてた漫画家さんと人形作家さんの対談で「残虐シーンそのものより、その後の姿が好き。昨日まで何も知らない処女だっただろうに、ひどい目にあったんだろうなって子の姿を書くのが好き」みたいなことを言ってて、かなりヤバい発言なんだろうけど、なんか分かる自分がいました(苦笑)。

少し前に、どっかで「竜太朗さんは未だに可愛いと言われていて、それは幼児性や無垢さを内包した唄世界が不変であるためだが、無垢さは刃を内包していて自傷行為にも近い心地よい痛みを生み出している、それがこのバンドのカラーだ」みたいなレビューを読んだのですが(そしてとてもうまい書き方だと思ったのですが)、そこで言っていることも近いと思いました。

無垢ゆえの表面的な可愛さと、その裏の残酷さ。
純潔という寓話のうえで、繰り出される破滅。
幼児性が高いゆえの奔放さと、その中の狂気。

実はそういうことを踏まえて、ネバネバの続きを書いてます。あの話の竜太朗くんは「無垢で幼児性が織りなす残酷さ」を、私なりに表現してもらおうというキャラです。
(でもエログロにはなりませんので。無理!)


拍手ありがとうございました!

まあ、そんなに難しい話は書けないし!


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佐山葉月 [MAIL]