2005年09月01日(木)
「あめいろのえのぐ」 確かに彼女はそう言ったのだった。 僕は空耳だと思い、それから思い直して空を見上げた。雲ひとつ無い快晴、とまではいかないまでも夏のうっとうしいくらいの青空が、山を支えにぴんと突っ張っている。 「いつも足りなくなるのよ。見つけたら速攻買って、引き出しの奥に一杯隠しておくのに」 歯磨きのチューブでも、几帳面にお尻のほうから使わないと小言が出てくる彼女のことだ、昔のアルミのチューブじゃあるまいし、最後の最後になって箸ででもしごいてやれば良いのにという言葉を受け付けないのと同様、そんな絵の具なんて最初から無かったんじゃないかという提言は却下だろう。 「それで」 僕はおもむろに咳払いをし、彼女の言葉に微塵も疑いなんて持っていない真摯な態度で質問をした。 「その絵の具で、何を描いているの?」 彼女はきょとんとして、薄曇の空の色をした爪で唇をなぞった。 「雨の絵よ?」 何を今更聞いているのよと、彼女のアーモンド形の目が呆れている。 「いや、うん、そうだよね」 雨色の絵の具を使うのなら、たしかに雨の絵を描く以外に無いだろう。にしても、だ。 「その絵は、どうしてるの? キャンバスはかさ張るだろう、君の部屋に置く場所なんてあったっけ」 2DKの彼女の部屋は、いつ訪ねても小奇麗に片付いていて、時々寂しいような懐かしいような匂いがするだけで、絵を趣味にしている気配なんて微塵も感じられなかったのだ。 「スケッチブックに描いているのよ。所詮、趣味だもの」 僕は記憶を丁寧に再生して、窓際にすえられたライティングデスクの脚と、壁の間に挟まれて立っていたリング綴じの背中にようやく辿りつく。 一体あの中に、何枚の憂鬱な雨の景色が閉じ込められているのだろう。 いつも朗らかで青空とばかり思っていた彼女の、以外な一面について考察しながら僕は想像を巡らせる。 雨色の絵の具はきっと、降ってくる雨を閉じ込めて捕らえたものなのだ。 だから画用紙に塗りつけられると同時に、空に帰りたくなったのに違いない。それはチューブの中の雨たちだって同じで、僅かな隙間を見つけてそこから逃げ出して、いまこの瞬間にも雨雲になって空から駆け下りる機会を耽々と狙っているに違いない。 「ああ、だからなんだ」僕は言った。「君の部屋が、いつも懐かしいような匂いがするのは」 彼女のぴんと張った眉が、少しだけ歪む。 「何の匂いがするって?」 「雨が降る前の、野原のにおい。ねえ、心配しなくてもその絵の具はさ、きっとまた君のところへ戻ってくるよ」 だから、今度は僕とか空の絵でも描いてくれないか。一緒にピクニックにでも行こうよ、晴れた日に。 彼女はちょっとだけ困った顔をして、それからこう言ったんだ。 「空色の絵の具は良いけど、あなたの絵の具は見つけるのが大変だわね」 ──じゃあ、その絵の具を見つけるところから始めようよ。 |
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