2005年12月21日(水) |
二人のガスコン / 恋 |
「二人のガスコン」を読んでいる。
最初は、ダルタニャンもシラノも気に入らなかったのだけれど、 どんどん引き込まれてしまった。
ダルタニャン・・・格好いい・・・
権謀術数に長けている割りに、 根は単純というかまっすぐで筋を通すところが、いい。 もちろん、やられたらやり返すだけの実力を持っているところもマル。
でも、何よりインパクトがあったのは、 マリーと寝た直後に、 マリーの想い人はシラノであり、 マリーがダルタニャンをシラノと勘違いしてコトに及んだ ってことが発覚したシーン。 そんな展開って・・・
これって、「ダルタニャン物語」の原作の、 「ミレディをだましてダルタニャンがやっちゃった事件」 へのアンチ・テーゼだったり・・・は、しないかな。
しかしですよ。 いくら真っ暗闇でも、相手が違えばわかるだろう?
マリーの場合は、まぁ思い込みがあったのだろうし、 それ以前に深く付き合った相手ではないから、 わからなくても仕方ないのかもしれないけど。
ミレディの場合はさぁ、 暗闇の中で触れる相手が、”いつもの相手”かどうか、 自分で判断つかなかったってことでしょう? それは、いくらなんでも、ありえないよね。
それはさておき、 最近の私は、恋愛から遠ざかってるせいもあり、 ”浮気”とかそういうことに関して、結構寛容だ。 もちろん、”一般論として”の話だけれど。
なんというか、「そういうもんでしょう?」って思う。 据え膳を食わない人もいるだろうけど、 それはまぁ価値観と抑制度の問題であって、 「クラっと来る」とか「つい心が揺れる」ってことは誰にでも起こり得る。
「そんなことはもう起こらない」と思っている人ほど、 突然のそういう誘惑には弱いだろう(たとえば私とか)。
そこで踏みとどまるか、衝動にさっさと身を委ねるか、 そういう自分を軽蔑するか、後悔するか、開き直るか、自惚れるか、 その辺りは、まぁ、そのときの状況と個々人の性格によるだろうけど。
「二人のガスコン」に出てくるダルタニャンとシラノの恋愛観 (および恋愛的態度)は、私にも理解しやすいものだった。
昔恋した人が忘れられなかったり、 その面影を別の人に見出してのぼせ上がってみたり、 実物ではなく妄想(希望の反映)で相手を判断したり、 相手の心がないことがわかっても縋ってみたり、 一方で別の相手と便利な関係を継続し、 でも心を告げることに臆病になる繊細さも、 何があっても守るという熱い心も、持ち合わせてる。
結局、色々な種類の女が共存してるのだ。
ミュージカルでは、ミレディが 「男はみんな、女は聖母か娼婦だと思ってる」って歌ってる。 (ベルリン版、私の似非ヒアリングなので間違ってる可能性あり)
あながち、この指摘は間違ってないと思う。
まぁ2種類だけではないけれど、いくつかの種類がある。
それって、全然別のものだから、共存だって平気でできちゃう。 んじゃないかな。
もちろん、男も同じ。
”永遠のたったひとり”というのは、 結果論としてはあり得ても、 可能性としてはあり得ない気がする。 (日本語として変な表現だけれど)
そんなことを、漠然と考える通勤時間(=読書タイム)。
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