CYMA’S MURMUR

2004年01月16日(金)   ようやく

なんだかようやくここ数年のゴタゴタが終わったという
実感に達した。遅すぎる感は否めないけど。

未だに私の生活エリアには各種トラップが仕込まれていて、
不意に地雷を踏んだり、想い出が降ってきたりで、
毎日のように胸を痛めたり腹を立てたりしているけれどもそれでも。

過ぎたことは過ぎたこととして、
私は自分で未来を作っていこう。
そりゃ大したもんでもないけどさ。
でも、動かなきゃ、ね。

飛行機に乗って知らない国へ行ってしまう、
という選択肢が現実的に可能であるということを知ってしまった以上、
ここに踏みとどまることに文句は言えない。
それもまた自分の選択であることに間違いないのだから。

ようやく腑に落ちた。



数日前に、私にはともだちが少ない。ってなことを書いた。
それは事実だし、
自分が「知りあい」に対しては冷たいということを自覚してもいる。

ここ何日か、「ともだち」でない「知りあい」から連絡がいくつかあった。
「ともだち」ではないけれど、
彼ら彼女らのことを私はそれなりに大事に思っているということに
今更ながら気付いたりしている。

彼ら彼女らとは、何の前触れもなく突然疎遠になるかもしれない。
疎遠になったということすら、数年かそれ以上経たないと気付かないかもしれない。
でも、一緒に過ごした時間に変わりはないんだよね。
街ですれ違えばお互い声をかけるしお茶くらい飲むでしょう。
そういう付き合いまで全て否定しているわけではないんです。

もちろん、彼ら彼女らは私の本性(?)を知らなかったり、
私が隠してる狡さとか寂しさを把握していたりはしない。

だからなんだと言うのだ?
それでいいじゃないか。
そんな感じ。



更に数日前に
「人間は、心は止められなくても、少なくとも行動は制御できる。」
と書いた。
本当は、そんなことを書くつもりじゃなかった。
逆に、「理性で感情を止めたりせずに突き進んだ方がいいときもある」
というようなことを考えていた。
でもふとした拍子にああいう表現が出てきた。そのまま載せた。
あれからずっと、この言葉がひっかかっている。
心は止められない。でも行動を止めるのは、理性であり、時には誠意でもある。
「何もかも捨ててもいい」と思ったとしても、
一気に全てを放り投げるのではなく、ステップを踏むことも可能だから。
自分が後悔や反省をすることになるだけなら構わないけど、
ちょっとでも他人の気持ちが絡むのならば、
やはり行動を制限することは必要なのだ。
イイ歳して何当たり前のこと言ってんだ、って感じですが、
でも心の底からそう思った。





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