■ 豆文 ■
 2009年11月12日(木) 【 中毒奇譚:12 】

【注意書き】

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【店主の経営メモ:本日のお客様──不器用な大人】

 その日、店の扉を開けて現れた姿を見て、店主は思わず表情を綻ばせた。
「おや、いつもありがとうございます!」
 感嘆符を付けてしまう程に嬉しそうである事には理由がある。現れた客人が、店主にとって非常に有り難い存在であったからだ。それはいわゆる──『上客』。
 恐ろしく綺麗な顔立ちにやや猫っ毛らしいミルクティー色の髪、無駄無く細長い体躯。整った形の指で火の付いていない煙草を弄び、その上客である男は女性、あるいは店主が特殊な趣味を持っていたならば十中八九胸を高鳴らせてしまうであろう笑顔を見せた。
「やぁ、お世話様」
 形と血色の良い唇が紡ぐ声は耳障り良く響く。椅子を引いて座った男は店主がすかさず差し出した灰皿を礼と共に受け取って、愛用らしいジッポライターを弾くと煙草に火を付けた。
「本日は煙草ですか? それとも例のお菓子でしょうか」
「いいや、今日は違うんだ。お祝い? 餞別? そんな感じかな」
 そう語る男からは明らかな機嫌の良さが伝わって来る。お祝いや餞別という事は誰かに何かを贈りたいのだろうが、要するにその相手の事を非常に大切に思っているという事だろうか。店主はそんな風に考えながら、お相手はどなたですかと問いかけた。
「近々小学校を卒業する子がいてね。僕が僕である為に、その子へ祝う気持ちを形にしたものをあげなければいけないと思った訳ですよ」
「小学校……甥っ子さんや姪っ子さんか何かで」
 まさか子どもではあるまいな。以前来た時に出したら大層お気に召してくれた珈琲を用意しながら尋ねると、煙草の煙を吐いた男は目を細め、少し困ったように笑う。
「あー……姪っ子も同い歳なんだけどそれはまた別で。僕の勝手な希望を語るとするならば──友達? 可愛い男の子ですよ」
「ご友人ですか」
「とてもいい子なんだよ、最高にいい子だと思うね。僕はそんなあの子が……うん、とても大好きでして。あ、変な意味では無いですよ? そういう意味で大好きなのは人妻です」
 以前に聞いた年齢──二十代なかばかと思いきや三十代前半だったという、あの時の衝撃はなかなか忘れられない──を考えると、小学校を卒業間近の『友達』というものは珍しい。そう店主は思った。付け足しでさらりと語られた趣味についてはひとまず横へと置いておく事にする。
「素敵なお話ですね、少し意外でしたけれど」
「だよね、僕も当時は驚いた。でも本当に……一番大切な子でね、出来る事なら『親友』という肩書きを得たいんだけれど……いかんせん僕が素直じゃないもんで。いつも墓穴ばかり掘ってしまうんだよね、からかいすぎて」
「墓穴、ですか」
「酷いもんですよー、自己嫌悪が後からどっかんどっかんきちゃう感じ。でも結局許してくれるからさ、ずるいんだよね。またからかっちゃう」
 その『友達』の事を思い出しているのだろうか。緩やかに語る男の目はどことなく悔しそうで、そして穏やかだ。ゆらゆらと揺れる煙草の煙を見つめながら目を細めていた男はやがて軽く吹き出すと店主を見遣った。
「──今の話、オフレコね」
「はい、承知しました」
 そして機嫌良く煙草を吸う。店主は上手に煎れる事の出来たとっておきの珈琲を差し出しながら、問い掛けた。
「で、結局どうなさいますか? お祝い餞別、お決まりでしたら出しますよ。ラッピングも致しますし」
「ホント? 実は決めてあるんだ。あーでも、あるかなぁ……」
「プライドに賭けて」
 店主は右手で拳を作り自身の胸元に当てる。頼もしい姿に男はへらりと笑った。
「素敵だねぇ。じゃあお願いするよ、……、…………」
「……それはまた、個性的な」
「だって大事でしょー? 中学生だよ? 十二歳だよ? 常識だよ? そう、これは──」
 珈琲を飲みながら、男はまるで店主を諭すように語り始めた。それが如何に大切なものであるか。選ぶ段階から妥協を許さない物であるか。自身の体験談も交えながら。
 いつしか珈琲は残り少なく、煙草は三本目に。男は至極真面目な表情でその煙草を潰しながら言葉を結ぶ。
「──という訳」
「……深いお話でした、僕はその大切さを忘れかけていた。それなりに使うというのに、嗚呼」
 店主もまた至極真面目な表情を浮かべ、目が覚めたような気分で述べた。
「大事でしょ? 僕なんて日常的ですよーもう」
「ええ、とても。では全力を持ってご用意させて頂きます」
 勿論、無いなどという事は無いのだ。店主は背筋を伸ばして立ち上がると、まるで神聖な儀式にでも挑むかのような心持ちで店の奥へと続く扉を開けた。
 そう、それは大人への第一歩を踏み出そうとしている少年の背を押す為の──

 数日後。

「……ってその時は同意してしまいましたけど、やはりおかしかったのでは……」
 客足の途絶えた午後。店主はお気に入りのカップを磨きながら、店内で一人首を傾げていた。
 恐るべき口説き能力、説得力。あの時軽く洗脳されかけていた自分を思い出し、男の持つ驚異的な才能に感嘆の息を吐く。
 と、そこで店の扉が開いた。反射的に顔を上げた店主が見たのは数日前と同じく笑う男の姿。けれど、店主の姿を認めた途端に男の笑顔が僅かだけ変化した。
「いらっしゃいませ……どうかなさいましたか?」
 違和感を覚えた店主が尋ねると、男は肩をすくめ右手をぷらぷらと振り、奇妙な程明るい声で言う。
「アレ、顔面に投げ返されちゃったよー。いやー参った参った!」
「……でしょうねぇ……あ、いや何でも」
 ある意味で予想通りのオチだ。そう思いながらも口には出さず、男へと椅子に座るよう促す。男は素直に腰を落とすと同時に肩も落とせるだけ落とし、頭を抱え、深い溜息を吐いた。
「ホント、僕って駄目だねぇ」
「あ、あの、気を落とさず……あぁもうそんなにうなだれて……煙草、煙草出しますよ、いつもの。チョコレートケーキもありますよ」
「何でもっと上手くやれないかなぁ僕は!」
「それが良いのだと思いますよ! たぶん!」
 店主が持っていた男へのイメージは、何事にも動じない余裕に溢れた人物であるというものだった。そのイメージが今、ガラガラという音を立て完全に崩れ去ってゆく。その様に店主は少なからず困惑し、ひたすら慰めるべく早口で声を掛け続けた。
「慰めてくれるなら人妻がいいな僕! 団地妻!」
「そういう事を仰る元気があるなら大丈夫ですから!」
「違うんだよコレも癖なんだよー。もっと素直に落ち込めってんだよね、あーもう最悪ー」
 ずるりずるりと、男は遂に両腕をだらしなく机上に伸ばし、己も溶けるように伸びてしまった。駄々を捏ねる子どもの如く腕をじたばたと動かして自己嫌悪と戦う男の姿は、店主に不思議と「見てしまって良いのだろうか」と思わせる。その思いに任せ軽く目を逸らした店主の気遣いには気付いていないのだろう、男は机に顔を埋めうだうだとぼやき続けていた。
「僕の顔に投げるとか、全国の奥様方が黙っていないよなんて言ってまたからかっちゃうしさ……あーでも彼女と彼女と彼女と彼女は本当に黙っていないだろうな……どうしよう彼女には今夜会う予定なのに、跡付いて無いよねぇ……もうしょーがないからアレは僕が使──じゃなくて、だからもう、僕ってばさー……」
 どうしたものか。お茶を煎れる位しか手段が思い浮かばない。けれどそれで解決するのだろうか。店主がそんな事を考え始めてしまってからほんの僅かな時が過ぎた、その時。
「!」
 男が弾かれたかのような勢いで上半身を起こした。びくりと肩を震わせた店主が何事かとそれを窺うも、目を大きく開いた男は全く意に介さず店の入り口扉を見遣る。
 その直後、扉が開いた。そして男が、それはもう姿勢良く堂々とした様子で立ち上がった。
「あ、いた」
 扉を開けたのは少年だった。可愛らしい顔つきの、小学生高学年だろうか。男の姿を認めた少年は呆れたように目を細める。
「ちょっと、帰るよ? まったくもう」
「何? 僕に命令? しかもここまで僕の事をつけてきたっての? 大人になりましたねぇ!」
 それはまるで水を得た魚の如く。大仰な振りを交え、男は少年へと自信満々の嘲笑を浮かべて弾んだ声で告げていた。店主はこの展開に付いてゆけず、とりあえず黙り込んでいる。
「人聞きが悪いよ。追いかけてあ・げ・た・の!」
「あげた! あげたって何かな。そんな態度は五百年くらい早くない? もう仕方が無いねぇ、偉ぶりたい年頃ってのはさ。じゃあ一緒に帰ってあげても構いませんよ」
 心の底から嬉しそうだ。
 店主はやがてそんな感想へと至った。人差し指でリズミカルに少年の額を突く男を慣れた様子であしらいながら、恐らく『気付いていない』であろう少年が店主を見る。
「あーはいはいはい。すみませんお邪魔しました!」
「あ、いえ、えーと……ま、またのお越しを?」
 何となく見た事がある方のような。そんな風に思いながら店主がいつもの言葉を述べると、少年を外へ無理矢理向けようとしていた男が顔だけ振り返った。
「そうだ、店主さん」
「は、はい」
「……さっきのもオフレコで」
 笑いながら、けれど切実さを宿す目で。告げた男は首を傾げる少年から逃れるように、先立って歩き出すと店を出て行った。
「……承知しました」
 全力で。
 上客の最大の弱味を知ってしまった店主は、持て余しそうな程に重たいのであろうそれをどう内心で処理したものかと考えて、やがて諦めかぶりを振った。
 遠ざかってゆく声を聞き、改めて思う。

「大体、何なのさアレ! 意味分かんない」
「え、分かんなかったの? 携帯電話バナナデコレーション。いいかい、例えメカオンチでも携帯電話が織りなす青春模様ってのはね──」
「オンチじゃないし。というかバナナ見るだけで気持ち悪くなるって知ってるでしょ!? 余計な事しないでよ!」
「可愛らしいじゃないですか。外面だけじゃなくてストラップから待ち受け画面まで頑張って用意したのに酷いなぁ、僕悲しい」
「画面開いて絶叫した俺を見て爆笑してたでしょうがー!!」
「僕の携帯で動画撮っちゃった! 後で送ってあげるよ、初メール初メール!」
「誰がいるか、っていうか今すぐ消せ!! 大体、別の買って貰う予定だから」
「え、何それ。僕否定するよ。僕が選んだ以外の携帯とか、これから先ずっと否定してあげますよ!」
「勝手にすれば?」

 ……処理など、出来る筈が無いのだと。


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