2006年04月11日(火) 【 中毒奇譚:5 】 |
【注意書き】
初見の方はまずこちらをご覧下さい(『はじめに』のページです)
【店主の経営メモ:本日のお客様──不安定な強さを持った人】
困っているのだ。 噂に聞いた店への道を歩きながら、女性はそう呟いた。 困っているのだ。あぁ、イライラする。吐き気がする。 歩は徐々に早まってゆく。背筋を真っ直ぐに伸ばし、白の衣をひらめかせ、かかとを鳴らしながら歩く女性はどこか凛としていて、道行く人の目を引いた。 しかし彼女は先述の通り、困っていた。凛々しいだなんて冗談も甚だしい。そう見えるだけで、彼女にしてみたら今の状態は……例えるならば『崖っぷち』
店はまだか。女性は歩く。 店はまだなのか。何なのだこの複雑な道のりは──
そう思い、すぐ傍の壁を殴りつけそうになった瞬間、視界の端に漆黒色の扉が見えた。
店だ。噂の店だ。願いが叶うらしい店だ。 私の為に、そうだ私の為の店だ。早く、早く。早く──
歩を更に早め女性は進む。扉まであと数メートル、彼女はとうとう駆け出すようにして、そのドアノブにしがみついた。が、結局、蹴るようにして開け放つ。
私の 願いを
「今すぐ私に最高級の茶葉を寄越せ。店主」
突如、扉を蹴り開けて言い放った女性に、店主はたっぷり10秒間黙り込んでから、ぱちくりと瞬いた。
「……茶葉、ですか。あぁ、ひとまずお座りになられては」 「そうだ茶葉だ。ここに来ればいつも良いものが出ると聞いた。ならばあるだろう、そこいらの店にはないものが」 乱暴に椅子を引きながら女性は座った。声に含まれるのは棘、けれど動きのひとつひとつは洗練されていて、どこか優美な──言動とはうらはらな──芯の強さを垣間見せる。 「ございます、けれど……茶葉にも色々とありまして、茶葉だけではどうにも」 「どうしろと言うのだ。銘柄を指定しろと言うのか。残念ながら私は詳しくないものでな、そうだ私が詳しい事など、型にはまった事ばかり。茶など知らん、何でもいいから出せ!」 だん、と。女性は拳でテーブルを叩き、声を荒げた。店主の肌にピリピリと伝わってくるのは── 店主は表情を変えぬまま、尋ねる。 「──何かございましたか」 「……何かとは何だ」 「いえ、唐突に申し訳ない。何か……そうですね、嫌な事……とは違って見えます。そうですね……」 店主は少しだけ眉をひそめ、ううん、と考えた。やがて、どうにかこうにかその言葉を絞り出す。 「理解不能な苛立ちを引き起こす、とても些細な出来事」 すると、女性は黙り込んだ。店主も黙り込んだが、女性が口を開かない事を確認し、続ける。 「……僕はお茶には五月蠅いもので、苛立ったままお茶を煎れられてしまった場合、その茶葉が可哀相と思ってしまうわけです。となると、良いものはお出しできるのですが、少々お断りしたく思うわけで」 「…………初見の相手の汚らしい愚痴を聞く趣味はあるか」 「普段はさらさら興味の無いところではありますが、今回は別で」 気を落ち着けるハーブティーを出そう、それにしてもこのお茶は大活躍だな。と、店主は口に出さず呟いた。女性は店主に尋ね、許可を得てはみたものの、やはり少し戸惑いがあるらしく、暫くの間は苦い顔で額を押さえていた。その隙に用意をしてしまおうと、店主はカップに手を伸ばす。 「普段は何をお飲みに?」 「適当なインスタントコーヒーだ」 「あまり宜しくは無いですね」 「あぁ、不味い」 後でコーヒー豆も勧めてみよう、と思いながら、店主は煎れ終わったお茶のカップを差し出した。女性はそれを受け取り、小さく一礼をしてから口に含む。瞬間、女性がかけていた眼鏡の奥の双眸から、何かが少しだけ、消えた。 「……美味いな」 「自慢の一品ですよ。落ち着かれました?」 「……あぁ、見苦しい所を見せた」 「もっと見苦しい方々を見慣れておりますので」 にこり、と店主は笑う。女性は逆に、わずかだったが苦笑した。 「私はどうも発散が下手なようでな。小さな事を溜めに溜め、結果、結局溜めたまま、叫びだしたくなっても叫ばずに、それが自然消滅をするのを待つようだ」 「難儀ですね」 「難儀だな、ああ難儀だ。だがどうにも変わらない」 「……折れたりする事などは、なく?」 「いっそ折れた方が楽かもしれないが、何故か立っている。何故か平静を装い、そしてそのまま時は過ぎる」 折れてぐだぐだになってみたいものだ、と女性はぼやくように言いながら、お茶を更に飲んだ。どうやら味はお気に召したらしい。 「……時間が憎いのだ」 「……はい?」 カップの中身が半分になった頃、女性がおもむろにそう切り出した。店主は思わず首を傾げる。 「……時間が憎い、と。勝つ事も、誇る事も、私は奴に出来ない」 店主は首を元に戻す。これは黙って聞けば良い話なのだと判断したからだ。それを女性が望んでいるのだと。 女性は店主を一瞥し、それから少し視線を動かし、続ける。 「時間に勝てないと痛感した私は、今度こそ勝てると思った。私の方がその時間を得ていたからな。しかし、やはり勝てなかった。時間を得ていても勝てなかった。誰かが勝敗を決めた訳ではない、私が勝手に敗北感を感じているだけだが」 その時女性が浮かべたのは、わずかな笑み。目元は何かを哀れむように、口元は何かを嘲笑うように。 「じゃあ私は何になら勝てるのか。そこまで考えて自己嫌悪に吐きそうになった。勝てない私は得られない、進まない。馬鹿げた話だ。そもそも勝負事ですらない」 私には、と。カップを置きながら、女性は続ける。 「型にはまった事しかできんのだ。そういう人間だった。だが、どうにかこうにか頑張って……いや、触れた事の無かったものに触れて、か。出来るようになった事がある」 「それは、一体」 「訪れた奴に、茶を出す事だ。先程聞いたと思うが、詳しくないのでな、適当な茶だ。引き留める為に、いつか奴に勝てるかもしれないと思う為に」 美味い茶を知らなかった事は、少々罪であったようだが、と。目の前のカップを見て呟く。 「行かないでくれという叫びに近いな。すがってくれという願望に近い。その為ならば何だってしてやろうと思いながら、出来る事はわずかな事だ。自分を主張する事すらできん。出来るのは、ただ静かに待つ事だ。窓の外を羨みながら待つ事だ。表情ひとつ変えずにな。聞かない、触れない。待つんだ。それができるのではなくてな、それしかできんのだ」 「……」 「だから茶が欲しい。金なら愚かな男から押し付けられた無駄金がある。幾らだろうが構わない。良い茶があれば、もしかしたら今以上に」 そこまで言って、あぁ、本当に吐きそうだ、と。女性は今度こそ、笑った。 「私は聞く限り強そうに見えるらしいが、結局それしかできんのだ。それしかできん奴が、どれだけ経ったとて、進めると思うか? 変わると思うか? 小さな苛立ちの積み重ねに耐えきれなくなっても、誰にもすがる事ができん奴が。最後の最後は恐怖感から、許されていても甘える事が出来なくなる奴が」 店主は何も言わなかった。女性は苦い笑みのまま、空のカップを店主へ押し戻した。 「……これは聞かなかった事にしておいてくれ。ひとまず、店主の薦めでいい、茶葉を頼む」 店主はカップを受け取った。それを眺め、そして長い沈黙を経て、顔を上げる。 「かしこまりました。数種類程、お出ししましょう。今程飲まれたこれはご入り用で?」 「混ぜてくれると有り難い。自分専用にでもするとしよう」 「了解でございます。あとは専用にもうひとつ、良いコーヒー豆もお付けしますね」 立ち上がり、いつもの扉に手をかける。 「助かった。願いの叶う店というのは、本当なのだな」 扉の向こうに入る瞬間、どこか嬉しそうに聞こえた呟きに、店主は答えず扉を閉めた。
「煎れ方は、それぞれのパッケージの裏側に。これからはインスタントだけではなく、色々と試してみて頂けると、僕としては嬉しく思います」 「あぁ、色々と面倒をかけたな」 支払いを済ませ、女性はじゃあな、と立ち上がった。女性が出ていこうとしたその背中に、 「あの、お客様」 「──何だ?」 店主は珍しく、こう告げた。
「ありがとうございました。──"またいらして下さいね"」
……女性はただ、小さく笑んだだけだった。
──今以上に、帰りたい場所へと、なるのだろうか。 手にしている茶葉は、とても重い。
|