昭和42年8月1日早朝、虎ノ門病院で私の父は42歳の生涯を閉じた。末期の胃癌、肺癌、肝臓癌で手の施しようがない状態で息を引き取った。その最期の夜、病院前で道路工事が行われていた。主治医の先生が、現場監督に『末期の患者がいる。少し遠慮してくれ』と懇願してくれたのが印象深かった。
前日の夜、伯父が買ってきてくれた好物の金つばアイスをほうばる姿が父に会った最後になった。『今夜は大丈夫』との医師の言葉に、居候をしていた市川市の伯父の家に戻ったのだ。ところが、早朝に逝ってしまった。タクシ−で駆けつけた時には、すでに息はなかった。
上場企業の役員をしていた伯父の計らいで、確か都内の大きな式場(多分、青山斎場だと思う)に運ばれた父の棺の前で一晩中泣いた。3歳の時に母と離婚した父と『父子家庭』生活7年。父子というよりも、仲間のような生活だった。
父は私を一度も『子供扱い』したことはなかった。褒められた記憶はあるが、怒られた記憶はまったくない。母がいない寂しさすら感じさせない父だった。楽しい思い出しかない。
当時の小学校は給食がなかった。毎朝出勤前の父は、手作りの弁当を作ってくれた。ある日の弁当に、甘く煮た『糸こんにゃく』が入っていた。美味しかったので全部食べた。帰宅すると父が『今日の糸こんにゃく、美味しかったろう?あれ実は、玉ねぎを細く切って煮たんだ。』と笑う。玉ねぎが大嫌い(今でも!)の私のために細工したのだ。そんな子煩悩な父だった。
あの父がいたから、父子家庭でも元気に学校に通えたと思う。伯父の家に居候した頃も、実母の再婚先に養子になった時も、そして、その後の人生の荒波の中でも、いつも父の笑顔が励ましだった。
10年ほど前に私の手に届いた父の日記。昭和31年12月2日にこんな記載がある。
『百里を往く者は九十九里を以って半ばとなす』依って以って、あわてず、たゆまず人生のゴ−ルを全うして下さい。坊や泣かないで何時でもにっこり、頑張って!!(原文ママ)
私の誕生日の日記だ。この父があったから、今の私がある。すばらしい父康秀、ありがとう!冥福を祈る。
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