いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2006年10月05日(木) 恩人Yさんのこと

 恩人のYさんが、今朝亡くなった。67歳、癌だった。

 Yさんとの最初の出会いは、昭和52年の1月だったと思う。米国から帰国して羽田に着いた私は、棲家を探して大田区糀谷駅前の不動産屋の門を叩いた。この業者には物件がなく「駅の踏み切りのところで、メガネをかけたK不動産のY社長がまっているから‥」と紹介され、18000円の6畳間を契約したのがきっかけだった。

 その後脱サラをして、会社を作った後も、なぜか親しいお付き合いをさせて頂いていた。結婚することになった時、2Kのマンションを880万円で、別の不動産屋から買うことにした。ところが手付けの30万円がない。そこで、Yさんに借りにいった。借りにいく私も相当だが、貸してくれたYさんも凄い!

 その後も、様々な場面でお世話になった。今度、オヤジになる長男は、1歳半から大田区の保育園に通っていたが、保育園から帰る先は、Yさんの会社。妻に「長男は?」と聞くと、「じっちゃんの家」と言われる日が続いた。「じっちゃん」とは、Yさんを長男が呼ぶ愛称だ。保育園から「じっちゃん」の会社に帰り、「じっちゃん」の自宅で夕飯を食べ、寝てしまう、そんな日も少なくなかった。

 平成7年、初めて区議選に立候補した時も「地盤、看板、カバン」のない私を、必死に応援してくださった。開票の日、開票率50%、犬伏1500票獲得。100%なら3000票で当選!と、早合点して「当確」を早々と宣言し、近所の人々と「祝杯」をあげてくれたのもYさんだった。その後、「落選確実」が決まり、「祝杯」の人々が一人去り、また一人去る選挙事務所で最後まで残り、泣いてくれたのもYさんだった。

 平成13年、同時多発テロの影響で私の経営していた旅行会社は、資金繰りに窮していた。確か、その年の10月の末日支払日だったと思う。どう計算しても、振り出した小切手の決済に300万円足りない。そこで、私は、サンケイ新聞に広告が載っていた「中小企業社長の味方、本日中に融資」という広告の、代々木の金融業者を訪ねた。

 ところが、この業者「中小企業の味方」どころか、私の持っているクレジットカードを担保にして、1週間で30%という暴利の違法業者だったのだ。銀行の閉まるギリギリの午後2時半頃、代々木駅近くの空き地で、私は真っ青な秋空を見つめていた。社長になってからの20年余りの出来事が走馬灯のように、思い浮かんだ。それも、あと数十分で終わり。「不渡り・倒産」という文字が、頭を何度もよぎる。

 社員は、家族はどうなるのだろう‥そんな落胆の底にいた私に、ふと、オヤジのように慕っていたYさんの顔が浮かんだ。携帯電話でYさんに電話をし、事情を説明した。Yさんは、たった一言「いいよ、300万円すぐに取りに来い」と。代々木駅前で、何度も携帯電話に頭を下げて泣いた。

 おかげで、会社は、その後、3ケ月程は延命したし、如何わしい金融業者からの借り入れもなく、なんとか、廃業後も再建の道を模索することが出来た。あの時、あの違法金融業者から借り入れていたら、今、私は多分生きていなかったと思う。

 そして、会社廃業後も、様々な場面でアドバイスを頂いた。

 ご自宅のフトンで、Yさんに対面した。在りし日の、あのYさんの面影はまったくなかった。抗癌剤や放射線治療で、苦しまれたのだろう。幸いなことに、お二人いらっしゃるお子様は、長男が司法書士兼宅建主任者、次男が1級建築士兼宅建主任者と、仲良くYさんのK不動産に勤務している。

 来週、私が初当選来2年間所管した、「臨海斎場」で荼毘にふされるのも何かのご縁だろうか。

 Yさん、本当に長い間ありがとう。ご冥福をお祈り致します。

 


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