パラダイムチェンジ

2007年01月31日(水) そのまんま東知事と「ヴォイス」

先々週の日曜日、元お笑いタレントのそのまんま東が宮崎県知事選挙で
当選を果たして以降、マスメディアはその話題で独占された感がある。
特に先週の週末は、どのニュースワイドショーを見てもそのまんま東
こと東国原知事は引っ張りだこだった。

お笑い芸人が県知事になったことで、最初は色眼鏡で見ていたニュース
メディアも、時間が経つにつれ好意的な解釈をするところが増えたよう
な感じで、それだけ視聴者からも(面白半分であっても)好意的に見られ
ているんだろうなあ、と思うのだ。

個人的にも、繰り返しTVで流されていた、そのまんま東候補の選挙演説
はちょっと耳を傾けたい気持ちになる。
それは、彼の口が上手い、とかそういう感じでもなく。

彼の言葉が単に口先だけでもなく、また知事になって豪勢な生活を
したい、という訳でもなく、本心で郷土の政治を変えたい、という風に
聞こえたと思うのである。
それは多分、地元なまりで、有権者の目を見て話していたからなのかも
しれない。

そしてその態度が、彼の言葉に強い説得力を与えたんじゃないのかな、
と思ったのである。

これから先、今年の選挙では他の政治家たちも、パフォーマンスが大事
だとかいって、無党派層の票を確保しようとおそらくは様々なパフォー
マンスを繰り広げるんだろうけど、一つ大きく違うのは、それが本心か
らなのか、それとも小手先のパフォーマンスなのかを、有権者は結構
きちんと見抜いてしまうんじゃないかな、という事である。

やっぱりね、その場限りでのお愛想笑いで目が笑ってなかったら、
ああ、この人の本心は別のところにあるんだろうな、と思うと思うん
だよね。

今回の結果を見て、有権者の既成政党離れが進んだ、という分析も
聞かれるけれど、そうではなくて、相手がちゃんと私たちの方を見て
話しているのか、を有権者は判断していて、そういうことができる
政治家が圧倒的に少ないんだけじゃないのかな、と思うのだ。

小泉前首相にしたって、彼の演説というのは、こっちまで声が届いて
きた気はするし。

まあ、実際のそのまんま東こと東国原知事の政治的な手腕がどうなのか
は、今後に期待という事でおいておくとして、ここで注目したいのは、
彼の表現力、情報発信能力についてである。

それって、少なくともそのまんま東候補には、「ヴォイス」があったん
じゃないのかな、と思ったのだ。


「ヴォイス」というのは、内田樹が時々出してくる言葉なんだけど、
元々は、映画「クローサー」の中でジュード・ロウ演じる新聞記者が、
「僕にはまだヴォイスがないんだ」と言ったのがきっかけだったと思う。

誤解をおそれずに私なりの解釈をすると、その場合の「ヴォイス」って
いうのは、その人の本心、根本思想に結びついた言葉なんじゃないかな
と思うのだ。
(確かに映画クローサーの中でのジュード・ロウは、本心がどこにある
のかわからない位、ふらふらとした言動や行動を繰り返していたし)

誰でも経験があると思うんだけど、自分の言葉がスーッと「通った」
経験があるんじゃないかな。
口先ではなく自分の本心から出た言葉が、ちゃんと相手に伝わった
瞬間というか。
そういう時って、普段の自分の言葉よりも、「ヴォイス」があるんじゃ
ないのかな、と思うのだ。


なんでそんなことを思ったか、というと、先週の金曜日、作家田口
ランディの講演会に参加したとき、田口ランディが美川憲一について
触れた時だった。

何でも、美川憲一自身が、自分が「おネェ言葉」を話すきっかけについて
話していたことがあるそうで。
その当時、コロッケによって再発見される前の美川憲一はどん底状態に
あり、営業で場末のスナックかどこかで歌っていたときに、普通の
話し言葉ではちっとも聞いてくれなかった聴衆が、彼?がおネェ言葉で
話したとたんに、きちんと振り返って歌を聞くようになったらしい。

すなわち、「おネェ言葉」を話している美川憲一にも、もしかしたら
「ヴォイス」があるんじゃないのかな、と思ったのである。

田口ランディは、「言葉というのは、意味だけが重要なのではなく、
その言葉が、相手との関係性の中でどのようにパフォーマンスとして
機能するかが重要なんだ」と言っていた。細部は違うかもしれないが。

つまり、美川憲一の場合には、彼の容姿とおネェ言葉が「合っていた」
から、彼のヴォイスになったんじゃないのかな。

逆の例を出してみる。
今現在、柳沢伯夫厚生労働相が、講演会で女性を子供を産む機械扱い
した事が問題になっている。
彼のことをかばうつもりは全くないけれど、この発言がこれだけ炎上
したのって、彼がこういう発言をしかねない、と周りの人間が受け取っ
たからじゃないのかな。
つまり、この発言の方が「本音」で、謝っている方が「建前」のように
見えるように機能している面もあるんじゃないのかな、と思うのだ。
個人的にもあの発言はダメじゃんと思うけど。

また、先日見た映画「それでも僕はやってない」の例を持ち出すと、
あの映画の中の主人公は、自分自身が犯罪を犯していない、という事は
知っていても、少なくとも刑事や検察官は、彼の本心から出ている
ヴォイスは通じていないんだよね。
もし通じていたら、彼は不起訴になっていたわけで(その場合、映画
としてはもっと盛り上がりに欠けるけど)。

だとするなら、どうすれば、私のヴォイスは伝わるのか。


以前、「おとなの小論文教室」の山田ズーニーのワークショップに
行ったことがある。
その時、ズーニーさんは言葉が伝わるときと伝わらない時の境界線を
こう言っていた。

それは話の上手い、下手ではない。その人が開いているか閉じているか
ではない。
その人自身が気付かなかったような、本当の事が思わず口から出てきた
時、自分が表現したいことが自分と一致したときには、その人の内側に
喜びが広がり、その喜び、納得感が一瞬にして周囲に伝わるのだ、と。
そしてみんな、本当の事を言うという事を甘く見ていると。
そのためには、思いと言葉が一致するように考える必要があると。


もう一つ、おこがましくも私が付け加えるとするなら、ヴォイスが
伝わるためには、自分の言いたいことが相手に伝わる、声として届く
だけではまだ足りないんじゃないかな、と思う。

伝わった上で、それによって相手を動かせるかどうかっていうのも
大きいのかもしれないな、と思うのだ。
もしくは、その場の雰囲気を変える力があるかどうかが重要なんじゃ
ないのかな。

やはり先日紹介した映画「不都合な真実」にしても、あの映画を観て
心を動かされた人には、アル・ゴアのヴォイスは届いたのかもしれない
けれど、あの映画を観て、うさんくさい、インチキだ、と思った人には
彼の言葉は響いていないわけで。

そして、そのまんま東候補の場合には、彼の言葉が有権者である相手を
動かすことが出来たからヴォイスがあると私は感じたのかもしれない。
そのまんま東知事に話を戻すと、彼の場合、お笑い芸人出身というのも
大きかったんじゃないかな、と思うのだ。


それは、彼には自分をネタにできる自己批評の能力があったという事で
もあり。
逆にいうと、俺の話を聞け、という本心からのヴォイスが、時として
聞く耳を持たれないのって、そこに自分の意見を少し離れた立場から
眺めて見ることができるかという、ほんのちょっとの心の余裕みたいな
ものがあるかどうかっていうのもあるのかもしれない。

お笑い芸人、特にバラエティ芸人の場合、俺が俺がではなくて、自分が
どのポジションにいるのかっていうスキャンみたいなものが大切な能力
のような気がするし。

自己批評の精神が強すぎると、萎縮しちゃって本当に言いたいことが
言えなくなっちゃう可能性もあるけれど、その辺の絶妙なバランスが
相手に声を届かせ、そして動かすためには重要なのかもしれない。


とまあ、そのまんま東知事の事を結構持ち上げた気もするけれど、
彼の評価っていうのは、この先彼が何をしたのかによって決まるん
だろうと思う。

彼の場合今のところ、イメージを逆転することで、いいブランドイメー
ジがついている気がするけれど、でもそういうイメージっていうのは、
あるある大事典のように、裏切られたと思った瞬間にすぐにそっぽを
向かれてしまう。

出来るなら、今後も東国原知事におかれましては、マスメディアに対し
てというよりは、地元の県民の方を向いて、彼のヴォイスを届かせて
ほしいと思う。

もしそれが出来るなら、任期も全うできるんじゃないのかな。


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