パラダイムチェンジ

2006年11月20日(月) いじめと「軸」

と言うことで、いじめについて、思いついた事を書いてみる。
ただし、これは私の知っている、いじめの世界の話と、その延長上の
話なので、現在のいじめの話とは、事情が違っているかもしれない。

さて、私はキャラ的には、いじめられっ子キャラである。
というより幼稚園時代くらいは、自分がいじめられっ子だった、と
いう記憶は(ほのかに)ある。

その後も、トラウマになるような、深刻ないじめられ体験は幸運に
してないけれど、多分自分本来のキャラはいじめられっ子だったん
じゃないかな、と今でも思ったりする。

そう思うのは、自分が結構空気読めないキャラだったからなんだけど
(今もか?)

で、そういう私の立場から、最近のいじめについての報道などを
見ていて、一つ注目したのは、いじめについて、中高生にアンケート
をした新聞の記事だった。

そこでは、「いじめられっ子にはいじめられる理由がある」と書いた
中高生が多かった。
で、それはおそらく、私が今の中高生の立場でも、もしかするとそう
思うかもしれないな、と思ったりもする。

だって、おそらくは私の学生時代よりも、空気読めよ、みたいな
同調圧力は強いのかもしれないし、その一方で、自分らしさとか
個性みたいな物を身につけろと言われ、また、受験では他人を蹴落
とせ、できなきゃ負け組とでも言われている、そのプレッシャーは
すごいのかもしれないとも思うし。

で、ここからが本題なんだけど、そういう中、いじめられる子って
いうのは、前回の話から広げれば、軸がはっきりしなかったりする
んじゃないのかな。

というのは、自分自身が、かつて周囲と上手くいかなかった時って、
自分の軸がぶれていたり、見失っていたり、はっきりしなかった時
なんじゃないかな、と思うからで。

逆にいうと、自分の中で軸がしっかりしている時って、周りから
見ると変人キャラであっても、それが個性として認められてる気が
するんだよね。

つまり、(いじめる側から見て)訳のわからない変人だと、いじめられ
る事もあるけど、軸のある変人の場合、それが個性になって「変な奴」とは思われても、それが味になって、いじめられる事は無いような気
がするのだ。

私の場合、中学時代は一番いじめられる可能性が高かったと思う
けど、その時は、幸い、勉強できるキャラの方が勝って、空気読め
ないキャラ扱いはそんなにひどくなかったと思うし。
(勉強しか出来ないくせに、と陰口を面と向かって言われたりも
したが)


ただ、軸がはっきりし過ぎている場合、その軸があることで(キャラ
が立っている事で)いじめの原因になる場合もあるかもしれない。
でもね、その場合でも、軸がある人の場合、その人を嫌いだと思う人
がいる反面、その人の事を好きだと思ってくれる人も必ずいると思う
んだよね。

で、それって、万人に好かれようと思って、自分の軸を無くしてしま
う事よりも、自分の軸をはっきりさせる事の方が、多分生きるのって
楽なんじゃないかな、と思うし。

それに前回佐藤可士和の言葉を引用したように、軸がしっかりした
人の方が、コミュニケーションセンスが高くなるし、将来仕事だって
きちんと成果の出せる人になるんじゃないのかな。


そしてもう一ついえるのは、実はいじめる側の方も、軸がない人が
多いんじゃないかな、と思うのである。

だって、多分軸がちゃんとある人の場合、いじめるのってダサイとか
格好悪いって思えるんじゃないかな、と思うのだ。

で、大人になっても人をいじめている奴って言うのも、結構軸が
なかったりするような気がするのだ。
そういう人って、なんて言うのか、ダサイっていうか、ちょろいって
いうか。

そしておそらく、私が今までそれほどいじめられなかったのは、
私の同級生だった人たちが、結構軸がきちんとしてた気がするんだ
よね。

それがもしも、現在の方がいじめが厳しくなっているんだとしたら、
それだけ、自分の軸がどこにあるのか、意識できなくなった生徒が
増えているんだと思うのだ。

で、実はその事の方が、今後の日本を考えたら深刻なんじゃないの
かな。
だって、コミュニケーションセンスのない奴が増えていて、自分の
軸なんてものがあるということ自体がわからない人が増えているって
事なのかもしれない訳だし。


同じく、最近の新聞記事では、「自分に親友と呼べる人間がいない」
「親・先生が真剣に話を聞いてくれない」と思う子供は、親友がいる
子供に比べて、女子では2倍の割合でいじめる側に回った経験がある
という調査結果が報道されていた。
つまり、いじめる側も実は孤立しているらしいのである。

ただ、思春期っていうのは、一番軸がわからなくなる時期の様な
気もするんだよね。
自分の身体自体が大人に向けて変化している訳だし、また今は昔より
進路について、親の干渉も強くて、自分の思ったとおりには中々
物事は進まないだろうと思うし。

でも、そういう時に何か一つでも、自分の軸が通っていれば、多分
いじめっ子もいじめられっ子も、生き易さが違うんじゃないかな、
と思うのである。(その軸が通っているのがいじめというのは無しに
して)

例えば、養老孟司や、茂木健一郎の場合、それは虫取りだったのかも
しれないし。今だったら、ゲームなどの脳内で済むことよりは、
もう少しフィジカルな、身体を動かすものの方が、その効果は高い
んじゃないのかな。
だって、身体が変わるって事は、それだけ自分の意識にも余裕が
出来ると、自分の経験から言っても思うのである。

でも実は、自分の軸がしっかり出来るって、そんなに簡単な事でも
ないので、しっかりとした軸が出来るためには、四苦八苦した経験
が必要だと思う。
だからといって、そこであきらめちゃったら、軸なんて未来永劫感じ
られないことの様な気もするし。


先日のトークショーで、茂木健一郎は、中沢新一と対談して以来、
マイナスの感情から、プラスの表現を生み出す心の錬金術について
ずーっと考えていると言っていた。

例えば、モーツアルトの音楽は、彼の人生における境遇はとても苦労
の多いものだったものに関わらず、明るい、華やかさを備えている。

人は誰でもダークサイドの一面を持っているとして、そのネガティブ
な物をそのまま出すのではなく、それをプラスに変えた表現の方が
多くの人の心を豊かにすることが出来る。

つまり、ある時期大変な境遇にあることが、平坦な人生を送ってきた
人よりも素晴らしい表現のできる可能性を含んでいるともいえるのか
もしれない。


でね、これは自分の経験から言うことなんだけど、軸が無くて周囲と
上手くいかなくて空回りして、右往左往している時と、自分の中で
軸が出来ているな、って思って心の余裕がある時って、本当に、自分
の中で軸を感じられるかどうかの違いでしかない気がするんだよね。

で、その軸を自分の中で作るっていう時に、自分の身体の内部の筋肉
を調整する事ってすごく役立つと思うのだ。
それは例えば、死ぬほど筋トレをしろと言っているのではなく、
身体の使い方のコツに気付けばガラッと変わると思うんだよね。

それは佐藤可士和が言っていたように、自分に足りない物を外から
付け加えようとするのではなく、自分の中で使われずに眠っていた
ものの価値を見つけ出して活用する、という事のような気がする
のだ。


先週の金曜日のTV番組「太田光の私が総理になったら・・・秘書田中」
で、いじめ問題を取り上げたとき、高校時代一言も同級生と話さな
かった太田光が、「浮いている奴の方が実は魅力的」と言ったのも、
軸のある個性的な人について言ってた様な感じがするのである。

ついでに言ってしまえば、最近の流行り?のモテるかどうかって
いうのも、男の場合は特に、軸があるかどうかが重要なんじゃない
のかな、と思うんだけど、長くなったのでそれはそのうちにでも。


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