| 2005年05月28日(土) |
フィリピンで戦い続けた人 |
フィリピンの山奥で、元日本兵が今も生きているという。 今も本当に生きているのだとすれば、80歳を超えているわけで、80過ぎ で今も現役?の兵士というものを私は想像することができない。
彼らが一体どのような、戦争中を含めれば60年以上もの時間を過ごして きたのか、ということも私には想像することができない。 一体いつ頃まで、いつ敵が襲ってくるのかという緊張感を強いられてき たのか、それとも80過ぎの今でもそういう生活が当たり前だったのか。
なんてことを思うのは、30年前同じくフィリピンのルパング島で発見 された小野田寛郎さんの講演を聞いたことがあったからである。 それが3年前の「ほぼ日刊イトイ新聞」のイベント、「智慧の実を食べ よう」での話。ちなみにその模様は本やDVDにもなっています。
今回改めて本を読み返してみると、小人数で戦争状態を続けていること の過酷さが伝わってくる。 以下、少しだけ抜粋すると、
一番最初に何が必要かといえば、食べるものです。本当はお米も魚も 野菜も食べたい。(略)ところが、島の中の周りすべてが敵となると、 そうは問屋がおろしてくれません。周りを見渡して、何か食べるものを 探しました。幸い、非常に牧畜のさかんなところで、まるで野生化した ような牛、あるいは馬がおりまして、その牛の肉をとって食べるという ことを一番最初に考えました。(略)
その次、その肉の保存ですが、暖かい南方ですから放っておけば三日目 には腐ってしまいます。(略)塩を塗って天日乾燥すれば乾きますが、 私たちは住民と敵の目を逃れて生活しているんですから、そういうこと ができません。結局、火を燃やして、火力で乾燥するしかない。(略)
天日乾燥のかわりに薄く切って乾かそうというので、イカのように薄く 切って串に通して乾かしました。一晩で本当に全部乾きます。(略) パリパリパリパリ、おいしいんですけど、何十キロという肉をイカの ように薄く切ると、やっこら終わったと思うと、もうナイフを持って いる指が開かない。手を切るからって非常に固く握っているから、 それが何時間も続いたから指が開かないんです。これも困る。(略)
食べるものだけあればまず生きられますけれども、数年経つと、今度は 被服の問題が出てきました。私たちは、雨に濡れると濡れっぱなしなん です。火を燃やすと煙が出る。太陽が出たからって、服を脱ぐわけに いかないんです。脱ぐと裸なんで。着替えを持つほど私たちは重いもの を持って歩きません。だから、これを太陽に干すことができないし、 日の当たるところにもし被服を干すと、敵や住民に日本兵ここにありと 看板を出しているようなものなんですね。これも危うくてできない。 結局ずっと乾くまで着ている。 そんなことで、雨に濡れるから被服がどんどん腐るわけです。(略)
被服は全部改造しなきゃいけないんですけれども、先ほど言ったよう に、濡れたまま着ているんですから、ゴム袋に入れて胸のポケットに 入れている針が、露玉がわいて錆びてしまう。銃だけは錆びさせない ように毎日毎日手入れしておいたんですが、針はめったに使わないもの です(略)。そういうことを何年も続け、とうとう針のめどがみんな折れ てしまいました。(略)
じゃあというので、ほかのフォールディングナイフをつぶして、スプ リングをたがねに作りました。そんなことをしたものですから、出来 上がるのに二日半もかかりました。それに自信を得て、一日かけて、 二人で一生懸命十本つくりました。そのときはそれでよかったんです けど、何かのはずみにふと仲間が、「隊長、あのとき十本しか作れ なかったね」と言いました。二人でこれっぽっちしかできない。(略) そのときに、私たち人間は、社会から離れてしまうと、本当に無力な ものだとつくづく思いました。(略)
私の仲間の一人が、毎日竹をこすって火をおこすのですけれども、面倒 な話なんです。まだ真っ暗いうちに火をおこして、煙が見つからない ように飯を炊くのですれども、そのときに「だれかマッチぐらいくれて もいいのに」ってついこぼしました。 確かに、マッチは安いものですから、住民たちに「おれたちの乾燥した 肉と交換しようじゃないか」と言えば、替えてくれないとも限らないん ですが。でも敵か味方になってしまったら、それがきかないんです。 住民にとっても日本兵に便宜を図ったというのがわかると、うっかり すると命をとられてしまう(略)。
相手がいないのですから、私たちにはお金もなんの価値もなくなって しまいました。(略)それを持っていても住民とマッチ一本も替えること ができないわけです。よしんば、それがダイヤであっても、金の延べ棒 であっても、住民と替えることはできません。戦争とはそういうもの なんです。(略)
結局、考えてみますと、貿易商にいたときは立派な貿易商になってうん とお金をもうけようと思って、それらしく行動した。だから、その時代 を知っている仲間は、「あんなナンパ半分のような男がよく戦争で三十 年もやれたものだ」と言いますけれど、兵隊になった以上はそうあるべ きであって、軍人らしく努力したということなんです。そしてその次 は、牧場を大きくするため畜産業者らしく一生懸命働いたのです。
いわゆる「らしく」働くこと。どこへ放り出されても、どこへ流され ようと、生きるために、あるいはそれらしく。ということは、自分の 責任を全うするということでもあります。人々がみんなそれらしく やってくれると信用ができます。信用ができないということは、団結 するということができなくなる。だれも信用できなければ、どうして 私たちは集団の中で暮らすことができますか。信用できなければ周り が敵と同じなんですよね。あの人に頼めばこのことはやってくれる、 自分はその代わり引き受けたことは必ずやる、だからお互いに信頼でき るわけで、初めてそこで一つの社会、一つの集団が成り立つわけです。 らしくやる――そのためには、時によっては自分の命を懸けるという ことが必要なときもあるわけです。その命を懸けるということが、自分 の意識している以上の力が出るということ。私が言いたいのはそこなん です。(略)
もっと詳しく知りたい方は、本かDVDで見ていただくとして。 やっぱり、実際に経験してきた人の話には迫力があると思います。
でもこういう話を聞くと、とても自分にはできないだろうなあ、と思う 一方で、いかに戦争状態における一兵士というものが、私たちの想像 からかけ離れた状況に置かれるのか、ということがわかるし。
いかに国家の存亡の危機のためとはいっても、小野田さんの話は特殊な 状況ではあっても、一個人にそれだけの労苦を強いることが愚かな行為 であるように、今の私は感じてしまうのである。
それだったらたとえどんな手を使ったって、そういう状況に追い込まれ ないように戦争を回避する知恵を持った国の国民でいたいよなあ、と 本気で思うのである。
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