2003年05月11日(日) |
「ボーリング・フォー・コロンバイン」 |
今日見た映画は「ボーリング・フォー・コロンバイン」。 昨年のカンヌ映画祭審査員特別賞、今年のアカデミー賞の長編ドキュメ ンタリー部門を受賞し、話題となった作品。
今年の1月から恵比寿ガーデンシネマ他で上映されていたんだけど、 今回、アカデミー賞受賞を記念してか?池袋シネマサンシャインでも上 映開始したので、ようやく見ることができた訳だ。
さてこの映画、一言で言えば、面白いけど彼女と見に行くのはどうなん だろう、である。 いや、別に恋人と見ても、全然いいと思うんだけど、自分が好きな子を 映画に誘うんだったら、ジェニファーロペス主演の「メイド・イン・マン ハッタン」とかに行くかも。いや、見てはいないんだけど。
いやもちろん冒頭の銀行のシーンからユーモア溢れていて、面白いんだ けど、その面白さは深く考えさせられる面白さ、とでも言えばいいのかも しれない。
パンフレットの中で、監督のマイケル・ムーアはこう言っている。 「観客が(アメリカの真実に)意気消沈して劇場を出れば、行動を起こ そうなんて気にならない。めげる気持ちを怒りに変えるのがユーモアな んだ。グラウチョ・マルクスやレニー・ブルースなどの最高のコメディ アンたちは怒りの人でもあっただろう?現実政治に対する風刺とユーモ アのアメリカ的伝統は死んじまったけれど、まっとうな怒りを持ち続け るためにユーモアは必要なんだ」
映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」とは、1999年4月20 日、アメリカのコロラド州、デンバーの郊外のリトルトンという町にあ るコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を発端とするドキュメンタリー 作品である。
トレンチコートマフィアを名乗り銃を乱射していた、その模様は日本の ニュースでも大きく報じられたから覚えている人も多いかもしれない。 関係ないけど、この映画を見た後、当時の報道 を見てみると結構興味深 かったりする。
コロンバイン事件をきっかけに、マイケル・ムーアは一つの疑問を持つ。 何故?アメリカではこんなにも銃による死亡者が多いのか?
そして、マイケル・ムーアはただ問い続ける。
例えば、多くのアメリカ人が行なう運動のように、日本車をハンマーで 壊すように、銃を一箇所に集め、それを壊したり、銃が一箇所にある事 の異常さをアメリカ市民たちにアピールしたりはしない。
また、日本のイブニングニュースのレポーターが例えば、今まさに自転 車をそこに放置しようとしている人に詰め寄るように、紋切り型の問い 詰め方はしない。
ただ、彼らに映像でもって、そのおかしな構図を切り取り、ユーモアたっ ぷりに銃がある事が当たり前で、ちっとも変だとは思わない人たちに、 そのおかしさを見せつける。
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 何故?コロンバイン高校の2人の高校生は銃を乱射したのか?
コロンバイン高校の先輩で、アニメサウスパークの作者、 マット・ストーンはこう答える。 「ここは退屈なだけの町で、退屈なだけの学校だ。俺は小学校の 6年生の時、数学クラスを受けようと思った時、こう言われたよ。 今回失敗したら、もう次はない。お前はこの先、一生敗者だと。
でも、彼らが敗北感を感じ続けなきゃいけないのは高校にいるまでの後 1年だか1年半(マイケル・ムーア:いや、彼らはあと2週間で卒業でき たんだ、と補足する)だけで、そんなものとは自由になったはずなのに。
学校を成績優秀で卒業した奴が保険の外交員になってつまらない人生を 送り、落ちこぼれた奴が成功したりすることがあるのが人生なんだ」と。
犯人二人が、ドイツ系ヘビメタのファンだったってだけで、諸悪の根源に 祭り上げられたマリリン・マンソンはこう言う。
「俺は悪者だ。ロックをやっているんだからな。でも俺に非難が集中し ているのは、それがわかりやすいからだ。(マイケル・ムーアに事件の あった日、クリントン大統領が命令して、コソボで過去最大の空爆があっ たのは知ってる?と訊かれ)ああ、知っているよ。全く皮肉なもんだ。 人びとに恐怖を植え付けているのはメディアと大統領であるのかもしれ ないのに。その話はメディアの構図にはそぐわないらしい。(事件後、 自分のライブの開催を反対したデンバーの人たちに言いたいことはある? と訊かれ)いや、何も。ただ、彼らの言い分を聞いてやりたい」
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 何故?6歳の男の子は、6歳の女の子に銃で発砲したのかと。
事件のあった町、フリントの保安官はこう言う。 「この国の貧困者対策は間違っている。何故、男の子の母親は片道1時 間半もかけて郊外のリッチ層の住む町まで行って、リッチ層のために決 して高くはない時給で、ドリンクを作り続けなくちゃいけないんだ。
彼女が70時間も働いても、アパートの家賃さえ払えなくて大家に追い 出されたんだ。彼女が追い出された後、身を寄せていた親戚の家で、男 の子は拳銃を見つけた。彼が拳銃を見つけた時、母親は遠くの町まで働 きに出ている途中だったよ」
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 豊富な映像と音声素材で。
コロンバイン高校の防犯カメラ。911(アメリカの119番)の電話音声。 コロンバイン高校からの悲鳴。おっとり刀で聞いてくるメディアの声。
事件後、事件のあったデンバーで全米ライフル協会(NRA)の大会を開き、 「権利がある限り、誰も私達を止めることなどできない」と声高々に謳 いあげる会長、チャールトン・ヘストンの姿と、その会場の外で被害者 たちの感情を逆撫でするなんて許せない、と集会を開く住民たちの姿を。
息子を失った父親は言う。 「この国はどこかおかしい。そろそろ皆気付くべきだ。 もしも私の息子が生きていたら、一緒にこの場に立っていた筈だ」と
何か事件が起きた時、真っ先に駆けつけるメディア達の姿。 カメラの前では悲痛な表情を演じながら、その裏では自分の髪型を気に するレポ−ター。
マイケル・ムーアは訊く。 何故、黒人による銃犯罪はトップニュースになって、空気汚染でハリウッド サインが見えないことは問題にしないんだと。
彼はただ、問い続ける。 ハンディカメラを持って。
コロンバイン高校事件の被害者たちとともに犯人に銃弾を売ったスーパー マーケット、Kマートの本部へと。
そしてNRAの会長、チャールトン・ヘストンの自宅へと。
彼らは、カメラの前に立つしか術はない。 なぜなら、彼らは映像の持つ力の怖さを、嫌と言うほど知っているから。 そして立ってしまったが最後、彼らの姿は映像によって残酷なまでに 切り取られる。
ここには、ヘストンを支持する熱狂的な会員たちの姿はなく、ただマイ ケル・ムーアと、彼らの姿を撮影しているカメラしかない。
1対1(いや、カメラもあるから多対1か)になってしまった限り、 彼は虚勢を張ることもできない。ただ、映像で切り取られた姿しか そこには存在しない。
チャールトン・ヘストンは今年の春、アルツハイマー病に冒されながらも 今まで続けていたNRAの会長を辞任した。
そしてKマートは、昨年経営困難に陥った。 まさか銃弾を一切扱わなくなったためではないと思うが。
そして私は考える。 もしも、日本で銃の規制がなかったら、一体どうなるんだろうと。 もしも、アメリカのように例えば西友で簡単に銃弾が買えたとしたら、 日本の銃犯罪による死亡者数は、例えばカナダのようにそれでも 低いままでいられるのだろうか。
日本でも、恐怖は簡単に植え付けられているんじゃないのか? そして例えば諸悪の根源を、クレヨンしんちゃんに押し付けていたりは しないのか?
そして私は考える。 何故、ボーリングはよくて、マリリン・マンソンはダメなのか。
私の答えはこうだ。 それは、マリリン・マンソンや、黒人の貧しさの原因が、人々の 理解と関心の外側にあるからだけなんじゃないのか、と。
自分の外側に、何か理解の範囲を越えるものがあると考え、そしてその ことが強調され続ける限り、恐怖がなくなる事はないのかもしれない。
この映画をみて、映画「チョコレート」 の事を思い出した。 この映画と、「チョコレート」の底流に流れるものって 共通しているような気がする。
そして奇しくもこの2作品や、「アメリカンビューティー」が アカデミー賞を受賞している事に何やら因縁めいたものを感じて しまうのは私だけだろうか。
|