パラダイムチェンジ

2003年03月21日(金) まずは声をあげてみること

昨日は春分の日、または彼岸の中日。
ただ仏教徒でもない、自営業の私にとっては国民の休日は関係なく、
仕事の日。
ただ、さすがに祝日ということもあって、午後からの重役出勤。

昼ごはんを食べがてら、仕事場に行こうと思い、大塚駅で降りて
仕事場まで歩くことにする。

で、駅を降りてふと気づくと、目の前になぜかピエロというかクラウン
の姿をした親子連れが歩いている。
なんだ?春だからか?なんて多少不謹慎なことを思いつつ、もう少し
よく見ると、背中に「NO WAR」の文字が。
どうやら、どこかの反戦デモに向かう途中らしい。

イラクで武力衝突が始まって、全世界的に反戦デモの機運が更に高まっ
て来たようだ。
フランスで6万人、サンフランシスコ、そしてソウルでは警官隊と衝突
して、逮捕者まで出たらしい。

その気分は日本にも伝染したらしく、日本各地で高校生を始めとして
反戦集会が開かれていたようだ。
その反戦集会、先ほどのピエロ親子だけでなく、いろんな扮装をして
いる人も多いようで、ある意味この時期反戦を唱えることがファッシ
ョンの一部になった気がする。

でも、ファッションでいいじゃん。
人を殺すことに熱狂することがファッションになるのに比べたら、
人を殺すことに異を唱えることがファッションになる世の中の方が
全然マシだと思う。

また、これは様々なところで見かけた意見だけど、どんなに反戦デモを
繰り広げようが戦争は起きてしまったし、反戦デモをしたからって、
戦争を当事者が辞めるわけはないんだから、意味ないじゃん、って
意見をよく見かける。

でも、そんな事はないと思う。
一人一人の力がたとえ無力であったとしても、その声が重なることで
その声は実は力を持ち、直接的にではなかったとしても、どこかで
当事者たちの意思決定に反映するような気がするのだ。

そしてそれはサイレントマジョリティとして、沈黙を続けている限り、
当事者たちには決して届かない。
すなわち、いくらそう思っていたとしても、声に出さない限り、何かを
変えていく力にはならないと思うのだ。

今回、反戦デモに参加した人が、戦争を止められなかったことに無力感
を感じることはないと思う。

大切なのは、問題意識を持って自分で行動した、というその意思、
だと思うのだ。
そして何か長いものに巻かれるわけでなく、そんな風に意思を持って
何かにコミットし続けようとすることこそが、何かを変えていく原動力に
なるんじゃないだろうか。

何も急に何かが変わらなくてもいいんじゃないかな。
自分の意見を通すために、何かを急に変えさせるための、一番簡単な
方法がテロリズムなのだから。
少なくとも、恐る恐る賛成の意を唱えたどこかの国の首脳さんたちは、
さぞかし夢見が悪いんだろうと思うし。

そこにずっと居続けて、違和感をずっと感じていること。
そしてその違和感を言葉として他人に伝えてみること。
そしてできれば、同じような思いを共有すること。
それが今回、この寸劇を見る羽目になった私たちの役目なのかもしれない。


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