新国立劇場に演劇「ピルグリム」を見に行く。 この公演の作・演出を手がける鴻上尚史ひきいる劇団、第三舞台は 大好きな劇団だった。
ここでちょっとだけ解説をすると、80年代、そして90年代を 野田秀樹の「夢の遊民社」とともに、走り抜けた劇団である。 その当時の人気はすさまじく、チケットなんて本当に取れなかった。
今現在もTVでよく見る筧利夫、勝村政信が所属していた事でも有名な 劇団である。 2001年に劇団としての活動を休眠し、今に至る。
私個人との関わりで言えば、第三舞台の舞台を見るようになったのは 90年から。 すなわち、第三舞台の人気がピークを迎えた時からのファンである。
だからこの劇団の人気を支えたオリジナルのフルメンバーが集まった 舞台は実は一回しか見たことがない。
それでもそのたった一回の経験は、当日券、立ち見の2階席という 悪条件だったにも関わらず、私をとりこにしていた。 それくらい、彼らが全力でアクトする姿はカッコよく、色気があった。
今回の舞台は、そのカッコよかった時代の戯曲の再演。 伝言ダイアルなど、時代にそぐわない部分だけ直して、ほぼオリジナル に近い形での上演である。 ただし、役者は一人を除きオリジナルのメンバーではなく、歌舞伎や 宝塚出身者など、幅広いジャンルからキャストを集めての上演。
個人的にライブで観る舞台というのは、残酷なメディアであると思う。 すなわち、その役者さんが何を拠り所として演技をするのか、 またどれだけの引き出しが備わっているのか、を見せてしまう世界だから。
今回の舞台の場合、歌舞伎界、宝塚、TV出身、そして小劇場出身と 様々な役者さんたちが出演していたから、特にそう思うのかもしれない。
これは、例えばTVドラマや映画では決してわからない。ただ、生の舞台 のみが、その役者さんがアクトする時の身体の知識をさらけ出してしまう のかもしれない。
普段、我々がついしてしまう演技をお芝居と言ってしまうように、 演技とは、何かを表層的にまねようと思えば、簡単にこなすことが出来る。 たとえば多くのTVドラマのように。
でも観客を前にした舞台の場合、そのアクトに説得力がなければ、その 演技は表層をすべり、俳優と観客の間に微妙な隙間をあけてしまうのかも しれない。
もしくはその舞台を見ている私たち自身が、生半可な演じ方では、 その嘘が見抜けてしまうほど、ヒリヒリとした日常を生きているのかも しれない。
かつての第三舞台の公演は、現在ではビデオやDVDのソフトで手に入る 時代になった。 今、そのかつて私が熱狂していた舞台のビデオを見直すと、驚くほど オーバーアクションで、なおかつ分かりやすいコミカルなアクションが 多かったことに気がつく。
でも普段、そんなアクションはしねえよなあ、と思う大げさなアクトは 実は今見ても説得力があるように思うのだ。 そして、そんな第三舞台の影響をもろに受けていた90年代。 実は自分の普段のアクションも大きかったことを思い出した。 笑うときは、わざわざ腹抱えて笑うふりをしてみたりとか。
第三舞台で、鴻上尚史がよくこんな話をしていたことを思い出す。 「世界が壊れないのなら、遊んでしまおう」と。 80年代から90年代にかけて、私たちはまだ時代を遊べるだけの余裕が あったのかもしれない。
そう阪神大震災やサリンの事件が起こり、長期不況に9.11が起こる ようになるまでは。
でもね、逆に言えばこういう時代だからこそ、あの頃の熱さがほしい気も するのだ。 私が初めて観た第三舞台は、東京大阪合わせて2ヶ月以上の公演なのに 全力疾走を続けているような舞台だった。
まるでフルマラソンの後、更にフルマラソンを続けてしまうような 無謀さと元気を、観る私たちに与えてくれていたような気がする。
でもそれは舞台に求める物なのではなく、自分自身の中にこそ持ち続ける べきものなのかもしれない。 激しくは燃えなくても、いつでも燃え上がれるように静かに燃えている 種火のように。 そして何かに触れれば、たちまち燃え上がれるように。
今回の舞台は、パンフレットのあちこちに普遍性という言葉が踊るように 鴻上さんにとってはそんな熱さよりもむしろ、今後も続くための普遍さを 探す旅だったのかもしれない。
でもできれば、またいつの日か私の中の種火を、その一瞬でいいから 燃え上がらせてくれるような、そして生きていく元気をくれるような 鴻上舞台をまた見たいなあ、と思う。
P.S.ニューロマンサー役の三国由奈さんは、可愛かった。 鴻上さんはこういう役者さんを可愛く見せるのが本当にうまいと思う。
|