以下の話は、単なる思いつきの話である。
恋愛に限らず、人が人と付き合うってのは何かを共有するって事 なんじゃないだろうか。
例えば、同じようなグループ構成だったとしても、同じ釜の飯を 食ってるか食ってないかで、その集団のまとまりの強さは違うと よく言われる。 すなわち彼らは同じ釜の飯、という体験を共有したわけだ。
もう一つベタな例でいえば、かつての少年漫画誌でよく見られた 風景、ライバル同士がへとへとになるまで闘うことで、その後 お互いを認め合い、仲良くなるとかね。 この場合は、お互いの喧嘩体験を共有しているわけだ。 でもこの光景、今の漫画雑誌でも見られるんだろうか?
また例えば組合だとか、組織の縛りなんてのも、共有するものの 一つかもしれない。まずはじめに組織ありきでまとまっている事 って結構あるんだろうし。
このように人は他の人と何かを共有しあう事で、その結びつきを より深めているような気もする。 年賀状だって、そうかもしれない。
そしてこの事は恋愛関係でも同様なんじゃないかと思う。
例えば、デート。 二人でどこかに行ってできた思い出なんてのは、二人が共有する もののわかりやすい例だろう。 二人だけで、共有するものが増えれば増えるほど、その結びつきは 強くなっていく。
また二人でする食事、特に一つの皿を二人でシェアするなんてのは 文字通り、共有するものであるわけだ。
これは余談だが、だからこそ彼氏/彼女が、自分以外の異性と 二人きりで食事をすることを嫌う人がいるのかもしれない。 それはたとえ何もなくても、自分のいない所で何かを共有することに 対して嫉妬しているような気もする。
もちろん、寝るということも共有するものの一つである。 それはお互いの最も無防備に近い姿を共有することなのかもしれない。
そして付き合うと宣言したり、結婚するというのも共有するものの 一つなんだと思う。 特に結婚なんて共有することを国が認めるという制度なわけで。 そんな風に、人は様々なものを共有することで関係を強固にして いるのかもしれない。
たとえば、不倫をしているだんなさんが、奥さんと別れて愛人と一緒に なるという決断がなかなかできないのは、たとえ感情は冷えてたと しても、奥さんと共有するものが強固だったりするからなのかも。
またたとえば、職場恋愛であったり、同じ趣味を持つ人同士が 付き合いやすいのも説明がつく。 この場合二人の間には、すでに共有するものがあらかじめ用意されて いるわけだ。 逆に言えば、全く共有するものを持たない同士が、恋愛をするのは 相当困難なことだといえるかもしれない。
その一方でその関係を希薄にしてしまうものもある。 それが、すれ違い。
たとえばなかなか物理的に会えなかったりすれば、すれ違いが 起きたりするし、また、二人でデートをしていて、片方は楽しみを 共有していると思っていても、もう片方はつまんないと思ったり する場合など。
こんな風にすれ違いは二人の関係を遠ざけるものなのかもしれない。 だからお互いが共有することよりも、すれ違いが多くなってしまうと 二人の関係はだんだんと遠ざかっていってしまう。
ただし共有することもすれ違うことも、二人の関係の様々な場面で 起こりうるから、たった一度のすれ違いが致命的になることは そんなにないかもしれない。 そのすれ違いは、次の共有するものによって修復は可能だったりする。 でもたとえ些細なすれ違いでも、それが続けばボディブローのように 後で効いてくることもある。
また共有するものにも、すれ違うものにも物理的なものと心理的な ものがある。 たとえば、遠距離恋愛。 物理的にお互いすれ違うことがあっても、心理的に共有するものが 強固であれば、その物理的なすれ違いは埋められる。
逆に、結婚という物理的?に共有するものが強固であっても、 心理的にお互いにすれ違うことが多ければ、いつかその関係は 冷え切ったものになってしまうのかもしれない。
そんな風に共有するものと、すれ違うものは絶えず綱引きをしている ような気がする。 またお互いに共有するものがあっても、それがそれ以上増えない場合、 やはりその関係はそこで止まってしまう可能性もあるわけだ。
そしてもう一つ。 お互いに何を共有したいと思うのか、または何を一番に共有したいと 思うのかって事も重要な気がする。 たとえば、付き合うとか、結婚するとか形を共有することを大切に 思う人もいるだろうし、逆に形にこだわらない人もいる。
そのことがすれ違いを生む場合もあるし、また形を大事にしたり、 形があることに安心してしまうことで、結局中身ですれ違ってしまう 場合もある。
だからお互いの関係をより密にしたいと思うならば、できるだけ すれ違いをなくし、そして共有するものを増やしていく必要がある。 それは様々な意味で結構コストのかかることなのかもしれない。
でも逆に考えれば、お互いの間に、心理的あるいは物理的なすれ違いが あったとしても、それは何かを共有するチャンスを増やせば、埋める 事ができるって事なのかもしれないと思う。
別に大きなイベントだけが何かを共有することではなく、むしろ 日常の中で小さなことを共有していくことの方が、最終的には 大きいような気もするのだ。 どんなに些細なことでも、共有することに変わりはないのだから。
ひるがえって自分自身の事を考えてみる。 やっぱりあまりにも共有するものが、少なかったんだろうなあ。 もっと気軽に二人で共有する時間を増やしておけばよかったんだと 思う。
個人的にはやはりお互いの時間を共有するって事が一番重要なもの だったんだと、今はしみじみと思うのだ。
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