| 2005年09月20日(火) |
050920_NHKで尊徳が放映されました |
どうも中途半端な三日間の始まり。
職場では昔の資料の廃棄をして、今の資料が入るスペースを作る。本当に整理出来ればよいのだけれど。
さて今日は、 ■二宮金次郎の紹介番組〜NHKその時歴史が動いた の1本です。
【二宮金次郎の紹介番組〜NHKその時歴史が動いた】 先週の9月14日放映のNHK「その時歴史が動いた」という番組で二宮金次郎が紹介された。
道東出張中で見られなかったので、家族に頼んで録画しておいたものをやっと見ることが出来た。
二宮金次郎、後の尊徳は小田原生まれの江戸末期の農村コンサルタントである。
幼くして洪水が原因で両親を失い、親戚に引き取られたものの、捨てられた苗をもらい受けて水たまりに植えて米を得るなど、勤勉と倹約による生き方を貫いた実践家である。
今日のお話は、幼い頃のエピソードから始まって、村再興の手腕を買われて小田原藩の領地であった下野の国(今の栃木県)桜町領の立て直しを行ったときのお話に続く。
「その任ではない」と断る尊徳に対して、協力を迫る藩主。尊徳はとうとう「十年間自分のやり方に指図をしない」という条件をのませて桜町領の復興に着手する。
しかし行ってみた現地は退廃的な雰囲気が漂っていて、村民は皆やる気を失ってしまっていたという。それはひとえに年貢が取れる米の領に対して重すぎたためで、尊徳はそれを見て「年貢を1/4にする」と約束し、村民の信頼を勝ち得てゆく。 ところが考えの違う者たちからの反発を受けて、改革が頓挫しかけたときに彼は突然失踪して成田山に籠もってしまう。
尊徳が突然になくなったことに驚いた村民たちは今度こそ心を入れ替えて、「戻ってきて欲しい」と嘆願する書状をしたためている。 やがて戻ってきた彼は、再び村民と共に勤労と節約に努め、村を立派に立て直した。
尊徳が村々を回って指導する仕方を報徳の世界では「仕法」と呼んでいるが、彼の仕法で救われた村は生涯に600を数えたという。
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そしてやがて江戸時代末期を襲った天保の飢饉の際には、小田原藩でも米が全く取れず、多くの村民が飢餓に苦しんだのだった。
その救済を藩主から命じられた尊徳は小田原へと向かい、「ただちに蔵を開いて米を村民に与えよ」と主張するが、頑迷な家来たちによって「主君の書状なくば蔵は開けられん」と抵抗される。
尊徳は怒り、「政治が行き届かず、飢饉に及んで民を死にいたらしめるとすれば、一体なんと言って天に謝罪するのか。」 「それならば、許可状が到着するまでの四日間、我々役人一同も飢えた民同様に、断食すべし。」と言ったと伝えられる。
さらに尊徳は、被害が少ない農民らに対して、それぞれの余剰分に応じて今で言う寄付を求め、それをもって被害の大きな農民に無利子で貸し与えるという手法で村を救ったのである。
「講」という今でいう銀行の走りのようなものを作ったのも報徳の教えからである。だから静岡県内の銀行や信金は決してバブルに踊ることなく、今でももっとも健全な経営の上位を占めているのである。
さて、こうして小田原城下の四万人の民が餓死から救われたというのが、今日の「その時」である。まさに江戸時代が生んだ、希有の道徳実践家であろう。
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ビデオを見た私としては、もっと他に伝えるべきエピソードや言葉の数々もありそうだ、と思ったが、45分番組で歴史のある一瞬を象徴的にとらえる手法の番組としては、この辺りが限度かも知れない。
PHP研究所出版の「二宮翁夜話(渡邉毅編訳)」を読んでいたら、勝海舟の金次郎評として「二宮尊徳には、一度会ったが、至って正直な人だったヨ。全体あんな時勢には、あんな人物がたくさん出来るものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かに見たヨ」(『氷川清話』)という一文が紹介されていた。
いつの世も道徳の荒廃を憂う気持ちは強いものだが、今だからこそ、理念や理想だけではない、実践家としての尊徳の言葉に触れることの意味があるのではなかろうか。
ちなみにこの番組、平成17年9月23日 (金)0:40〜1:23に総合テレビで再放送されることになっています。
見逃した方はチェックをお忘れなく。
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