掛川奮闘記

2005年07月12日(火) 050712_対話力を考える

 雨は上がって爽やかな一日。気温はここのところ低めで推移しています。梅雨前線が過ぎればきっと暑くなる事でしょう。

 
 さて今日は、
■是か非か程度か の1本です。

【是か非か程度か】
 駅の北口の広範なエリアが7月1日から自転車路上駐輪全面禁止となり、歩道の上もだいぶすっきりしてきた。

 駐輪禁止となった1日には、市役所の道路管理課を中心に撤去作業を行ってテレビなども注目して映像を流していたが、のど元を過ぎればもうニュース性はなく今ではもうテレビに出る事もない。

 自転車に乗る側の方は一時はちりぢりに逃げていたのだが、一台が路上に停めてそれが撤去されないと分かるやすぐに十数台が「みんなで停めれば怖くない」的に連なって歩道の上を占拠している。

 それでも6月までの無法状態から比べると遙かにマシで、停める側も以前のような傍若無人の振る舞いからどこかに申し訳なさそうな雰囲気が感じられる。

 結局、それらは法律や条令で「良いか悪いか」を決めるような事柄ではなくて、「少しなら良いが度を超すと問題だ」という「程度の問題」であることがよく分かる。
  問題なのは、この「程度の問題」に対する許容の範囲が人それぞれであるところで、それも価値観がばらばらになると、ある人は「これはとんでもないことだ、許せない」と言うかも知れないし、別な人は「それくらいは良いのじゃないか」と思っているのである。

 昔ならば、大人らしい人が「ダメなものはダメだ!」と一括すればそれが良いとダメの境になったのかも知れないが、今日日、だれも「おれがアンパイアだ!」と言い張る人がいるはずもなく、ある人は気にもせず、またある人は顔をしかめながら無秩序の町を歩いている。

 もちろん、大人としての自己責任の範囲で行えばよいものも多く、個人の自己責任で行う行動を認める「あそび」の部分がなくては社会全体がどんどん息苦しいものになって行くということに、良識ある人々は気付かなくてはならない。

 日本の場合は、この程度の問題が現場の判断に降りていないか、現場が主体的に判断をしないために、物事を決めるかなり上流で細かな事までが決められていすぎるのである。

 アメリカ映画などを見ていると、よく警察官が登場するが、犯人とおぼしきものと対峙するときは「自分こそがここでは正義なのだ」という最前線の現場での判断権限を持たされていると思われるシーンに良く出くわす。
 これこそが現場の感覚であり、同時に一度悪意に用いられると収拾がつかなくなるところでもある。

 
 物事には時の常識に判断の基準をゆだねておく方が運用がうまくいく事が多いのだが、法律などで違反行為を明確に定めてしまうと、法律では時の流れを的確に内容に反映出来ずにおかしな決めごとが跳梁跋扈するということも多いのだ。

 しかし世の中の多くの人たちは、その場その場でお互いの価値観に照らして議論をして結果を出す、などというあほらしいことはせずに、「良いのか悪いのか決めて欲しい」という行動に出がちなのである。

 そしてその結果、法律は常に少しずつ厳しめに設定されて、私も含む小市民はそれを申し訳なさそうに破りながら日常生活を営み、取り締まる側はいつでも取り締まれる権限を持ちつつ、日常が破られない限りは見逃すという力関係になったところで社会が安定するという仕掛けになっている。

 我々に必要なのは、周りが安定する考え方へ意見を集約してコンセンサスを得るという対話力なのだ。そして、対話で物事を解決しようと思えば、まず周囲の人間に話しかけることができなくてはならない。

 次に、相手の警戒心を解いて理を尽くして主張をして相手の理解を得るという作業が必要となり、当然そのための能力も必要となる。

 すれ違う人たちはもちろん、朝職場の警備員さんが「おはようございます!」と言うのにも無言で過ぎる人たちを見ていると、もう今の日本人にはそんな力は残っていないようにも思えて残念な限りである。

    *   *   *   * 

 知人から教えてもらったのだが、「おはよう」というのは仏教の修行なのだそうだ。目上の者が目下の者に対して「おはよう」と声を掛け、それに対する反応の仕方で相手の修行がどれくらいまで来ているかを推し量るのだそうだ。

 「おはようございます」と声を掛けて、返事が返ってこないというのは修行の緒にもついていないという事なのかもしれないね。うーん。

  
  



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こままさ