| 2005年06月15日(水) |
050615_絶対善はない!多様な評価を持とう |
今日も札幌は朝から快晴。北海道に梅雨がないことをありがたく思います。
さて今日は、 ■一つの評価基準ではあっているけど… の1本です。
【一つの評価基準ではあっているけど…】 昨日東京へ行った際に知人にあって、これからの社会のあり方について意見交換をしたのだが、それが面白かったので皆さんのご意見を聞きたいと思い、述べさせていただく。
知人の問題意識は、「なぜ日本はこれほど高コストの社会になってしまったのか?」ということ。
「民主主義には時間とお金がかかるのです」などと分かったようなことを言って逃げていられる場合ではなく、これから先の国民はこれまでの高コスト社会の負担を確実に背負うことになるのである。 多くの社会問題を個人が自分の責任と負担で支えるという気概も覚悟も能力も失ってしまったことで、多くのことがらを社会が負担するようになった。
そして行政は「住民の皆様のニーズですから」ということにして、住民の不満を解消するという方向でいわゆる『行政【サービス】』を行ってきたために、どんどんコストはふくれる一方である。
行政のコストがかさんでも、住民が納得の上応分の負担をしてくださればよいのだが、そうそう税金を上げたり企業がほいほいと進出してくださるわけでもないので、収支バランスは悪化するばかりである。
福祉も老人介護の問題も、子育ても、昔は家族の責任と自己負担の中で苦しくても全てをまかなっていたが、それらを保障する制度を作ってまかなおうとする中で実際には社会全体がかかる応分の費用を負担せずに支出ばかりが増えてしまったのではなかろうか。
そう言う意味では住民のニーズに答えたという評価基準では合格だが、財政的には不合格である。
行政には本来高い得点があっても、どこかで低い得点のところがあればそれは立ちゆかないはずなのだが、こと財政問題の場合は交付税で国が借金をして面倒を見てくれたり、一応借金で目先の帳尻は合うので問題が正確に住民には分かりづらいのである。
行政はかっこうわるくても、不合格を出さないようにしなくてはならないのだが。
* * * *
現在社会のニーズとして受けがよいのは、「安全安心」や「防災」などのキーワードだが、これらとて安全の確保や防災性の向上という点だけで合格点を取るのではなく、費用対効果や他にマイナスになる影響はないかと言うことを十分に考えなくてはなるまい。
例えば地方都市をドライブしていると、「どうしてこんなまっすぐな道路に鋼鉄製の真っ白なガードレールが必要なのかな?」と思うことがある。
道路交通や万が一の事故の際にドライバーの安全を考えて措置したと言うことでは、交通安全に寄与しているのかも知れないが、本来運転免許を持っていると言うことは、常に道路状況を把握しながら適切なハンドル操作やアクセル、ブレーキの操作ができる人に与えられるものであるはずである。 実際、ドイツの田舎道などを見てみると急峻な坂道のカーブですらガードレールはない道が多い。事故はドライバーの自己責任の範囲ということになれば当然の社会的な対応とも言えよう。
またのどかな田園地帯にあって無粋な鋼鉄製のガードレールが存在することは良好な景観を阻害しているとも言えて、これまた社会的にはマイナスである。
もちろん全ての道路でそういった安全設備が不必要と言うつもりもないが、「いる」「いらない」や「善か悪か」と言った二元論ではなく、その中間にある答えに対して、「どの程度まで必要か」という社会の常識の線が安全重視に振れているように思えるのである。
その結果、安全では不必要なまでに合格点を取りつつ、社会的コストや景観面では不合格になっているところも多いのではないか。
なんでも施設や予算でカバーしようとする母親のような社会から、もう少し分をわきまえて個人の責任の範囲を厳しく捕らえるような「父親的な社会」に移行して行かない限り、今日の借金が平気な社会から脱することはできないように思えるのである。
重ねて言うが、「白か黒か」とか「善か悪か」といった二項対立的で簡単に理解しやすい論調にまとめ上げてしまうのではなく、もっと社会の背景は複雑で、そこには絶対善もなければ絶対悪もないのだ、というより深い社会への目が必要なように思われる。
* * * * だがしかし!大きな事故などがあると、社会全体がついつい感情的になる。そしてその結果、犯人捜しや悪者捜しが始まり、ひとたびマスコミが目をつけた悪者は徹底的に糾弾されるお決まりの状態になるのである。
我が国民ももう少し大人になって、社会を生きるものには一定のリスクがつきものなのだという諦観もどこかで持つような強い生き方をしなくてはならないように思うのだ。
国の財政問題を語る上では増税だけが答えなのではなく、いかに我々がもう少し分をわきまえたり何かを持ち寄ったり、ある程度のことを覚悟するという社会常識を復活させることが大事なのだと思う。
北海道も道州制を語る前に、もう一度先祖の墓でも洗って「北海道に住む限り我慢しなくてはならない」という開拓時代のマインドを、もう一度復活させたいものだ。
それにはやはり市町村のあり方がなんと言っても大事なのだけれど…。
そんな話を昨日知人としたばかり。多様な評価尺度でものを見て、身の回りの贅沢をすこしだけやせ我慢してみませんか
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