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中洲次郎さんのエッセイ「兄の荼毘」
2007年07月27日(金)

私たちが昔から使っている言葉に”荼毘に附す”というのがある。

大きく捉えてお葬式全体をさしている。

その言葉だけを取り上げると荼毘というのは火葬という意味だ。
その昔、亡くなった人を自分たちの手で火葬を執り行う。
わら束や木切れを、できうる限り沢山積み上げてその人の魂が高く高く天に向かって昇りやすいようにし、火をつけるのだ。

そうして、その火が立ち上る煙となり高く高く空に吸い込まれていく。
その煙に乗って魂は天に昇っていくと信じられていた。
私が子供の頃になくなった祖父のときは、もう火葬場があったが、やっぱりその煙突から白い煙がいつまでも昇っていくのを見て祖母や母がじっと手を合わせていたのを覚えている。
それを見る私たち子供もやっぱり手を合わせずにはいられなかった。



さて、中州次郎さんのお兄さんは、6歳のときに心臓弁膜症でなくなったそうだ。

「お迎えが来ているから、窓を開けて」
お母さんが少し窓を開けると
「お迎えの行列だ。じゃ僕は行くよ」
と言って、亡くなった。そっと窓の外を見たが次郎少年には、お迎えの列は見えなかったそうだ。


お葬式は、火葬場がないところだったので、浜辺に長方形の石が置かれていてそこに小さな棺を置き、おがくずや柴木やそだでおおい、くくったわら束を傘のように開いてこづみ、その上にもいくつもいくつも収穫時の稲小積みのようにつんで行く。
そうして、重油をまいて火をつけた。


そしてお兄さんの好きだった「鐘の鳴る丘」を家族で訥々と、とぎれながら歌ったそうだ。

完全に焼けるまでには朝までかかると言われ、次郎少年は良く覚えていないまま家に帰った。


翌朝、浜辺に出かけていったお父さんは、すぐに戻ってきて、
「まだ、心臓が燃え残っていた・・・もう一度火をつけてきた」
と、お母さんに悄然として伝えていた。


それから時が移って、


お兄さんの50回忌も終わり、お父さんの7回忌が今年だそうだ。


わが子の焼け残った内臓を見た父。
どういう思いで再びわら束を小積みあげたのか・・・。

今も、田舎の砂浜に立つと、あの時の赤々としたほむらが、
私の瞳の奥で屹立する。兄が、行列の牛車に乗って衝天して行く姿が見える。



♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台

 鐘が鳴りますキンコンカン  メーメー小山羊も啼いてます♪



やさしいメロディーの童謡なのに、なぜか悲しい響きがあるこの曲、
今でも、この歌に遭遇すると感極まると書いてあった。



人の死と言うのは、これほどつらく悲しい、そして崇高なもの。
裁判で、あれこれと作り話のようなものを持ち出して
それらしくストーリーをつなげて行くのを聞くのは耐えられない。
怒りで吐き気さえ覚えるようなストーリーはこれ以上積み上げないでほしい。



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