店主雑感
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2002年05月09日(木) 間違った権利意識と平等感

 何事にせよ、「する」権利などはなくて、
「しない」権利だけがある。

 どんなに好きでも、つきまとう権利はない。
 反対に、どんなに好かれようと相手にしな
い権利がある。

 今日の教育が決定的に間違っている点は、
「誰にでも人を好きになる権利はあるはず」、
と思い込ませてしまうところにある。

 人を好きになるのはとめられない。
 また、とめる必要もない。
 だからといって、権利ではない。
 相手が拒めば、いつでも引き下がらなくて
はならない。
 権利は拒む側にこそある。

 何と思われようと己の志に純粋、といえば
きこえはいいが、それはただのエゴイズムに
すぎない。

 たしかに相手の思惑を気にしすぎるのは俗
物であろうが、それをうかつに頭の悪い子供
達の前で言ってはいけない。

 何故なら、人の思惑など一切顧慮せぬのが
偉大な人間である、と勘違いして孤高の一匹
狼を気取るばかが増えるだけだからだ。

 頭の悪い子供に間違った権利意識と平等感
を吹き込み、常識を蔑むことが自由で柔軟な
発想につながる、かのような誤解を与えた場
合、どんな人間ができあがるかは、ちょっと
周囲を見回せばわかる。

 誰にでもやさしいのが健全な社会ではない。
 人間は他者からの援助や協力なしには生き
られない。
 単独では非常に無力な存在である。
 特にその幼児期にあっては、快不快のすべ
てを周囲に依存しきっている。
 人間でも動物でもこの時期に身につけた行
動の仕方が、その後の生涯を支配する。

 「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場
で学んだ」という題の本が大分以前にあった
が、現在では大切なことを何ひとつ身につけ
ないで砂場から出てきたような不快な人間が
社会のあらゆる階層に増えている。

 就学児童にまず最初に教えるべきことは、
「この自由な日本という国では、本人が望ま
ないことは、何人といえども、これを強制す
ることはできない、つまり、たとえ親や教師
であっても、学校へ来たくない子供を無理に
学校へ来させることはできない」、という事
実である。

 そして就学児童の親達に伝えるべきことは、
「人並みの教育を受ける権利、などというも
のはなくて、あるのは、人並みの教育を受け
る機会だけだ」、ということである。
 しかもこの機会は、親にではなく子供本人
対して与えられたものである。

 教育にかぎらず民主主義が保障する権利と
は、与えられた機会に対して、本人自身がこ
れを拒否する権利だけである。
 与えられた機会を受け取るためには、様々
な制約が伴うし、それらの制約をみずから進
んで受け入れる覚悟が必要である。

 すなわち、人並みの教育を受け、人並みの
生活を送りたい、と願う者は、誰でも、人並
みに社会の現行ルールを守らなければならな
い、ということである。
 教室での最低限のルールが守れない者に、
授業を受ける資格はない。
 学校へ来ることを拒む権利が、本人に保障
されている以上、教室にいる生徒は、全員が、
自ら望んでそこにいる、ということである。

 分かりにくいところは少しもない。
 小学生にでも、ゆっくり説明すれば充分に
理解できる。

 そもそも、主義や制度以前に、生きる権利、
などというものが、誰にもないのであって、
この世に生をうける、というのは、単に生き
る機会を与えられたにすぎない。
 神によってかどうかは知らないが、その機
会ですら、必ずしも一律に与えられているわ
けではない。
 生まれつき心臓に欠陥を抱えて、不安な人
生を送る人もいる。

 生きるという事は、極めて不公平で無原則
な生存競争に参加する、という事である。
 大会ルールに文句をつけてもはじまらない。
 どうしても気に入らなければ棄権するほか
ないが、他の参加者に迷惑がかからぬよう、
しずかに退場しなければいけない。


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