店主雑感
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2002年05月01日(水) 戦後教育が生んだ誤解

 昭和25年(1950年)生まれの団塊世
代はちょうど50歳で、二十世紀が幕を降ろ
すのを見た。
 この年代は第二次大戦直後数年間のベビー
ブームに生まれた子供達で、やたら数が多い。

 そしてその親達の大半は、敗戦を大人への
成長過程で迎え、戦後社会が価値観の180
度転倒、という曲芸の様なまねを見せる中、
成人し、やがて自分達の子供を持つにいたっ
た世代である。

 そのせいかどうか躾に関しては、定見を持
てぬまま、これを義務教育に委ねてしまった
感がある。

 とにかく昭和20年代の子供達は、いわゆ
る戦後の民主教育を自明の事として受けた最
初の世代である。

 親や教師達が受けた全体主義教育がどんな
ものかはよく知らない。
 しかし戦後の民主教育というものも、これ
はこれでそうとうに胡散臭い。

 「人はすべて平等に造られており、人間と
しての尊厳に変わりはない」

 そうだろうか、子供の目から見ても人間一
人一人の尊厳はずいぶん違っているように見
える。

 天皇陛下の名のもとに何万の二等兵の命を
投げだせ、というのも無茶だが、誰でも彼で
も同じ、というのもやはり無理があるだろう。

 公民権上の平等はわかるが、人間存在にま
でへんに平等を強調し過ぎるのは、反って不
自然な誤解を生むことになる。

 人間としての尊厳は一人一人違っている。
 もちろん、肌の色の違いによってではなく、
その生き方によってであり、生まれ(出自)
によってではなく、その育ち方によってであ
る。

 子供の世界にもちゃんと尊敬や軽蔑はあり、
一々大人から教わるまでもない。
 相手が大人であれ、子供であれ、公正で勇
気のある者は一目置かれるし、ずるくて臆病
な者は嫌われる。

 子供というのは大抵の場合、親の顔つきを
受け継ぐのと同じ割合いで、親のずるさをも
受け継いでいるから、幼稚園の砂場にして、
早くもその振る舞い方で、人間性の違いはは
っきり見えてくる。

 10歳から12歳くらいまでの子供という
のは、案外物事の本質が直感的にわかってい
る、むしろ成長するにつれ、認めたくない事
実から目をそらす術を教わる、といって良い。

 自分が子供だった昭和35年頃までの大人
は、現実の世界がいかに不条理に満ちていよ
うが、「それがどうした、騒ぐほどのことか」
と片付けるだけの懐の深さがあった。

 また子供の方でも、「算数はできなくても
駆けっこの速い子がいるように、人各々に得
意不得意がある」といった言い方をされて、
それを真に受けるほどばかではなかった。

 「もちろん、どんなに努力しても及ばぬ壁
はある、しかし安易に敗北主義に走るのは、
単に努力するのが嫌なだけの怠け者である、
さがせば誰にでも取り柄のひとつやふたつは
あるかもしれない、そのくらいの気持で頑張
れ」、と翻訳して聞くことができた。

 ところが現在では、「駆けっこ」を「スポ
ーツの才能」や「芸術的感性」、といった言
葉で置き換えてやれば、子供どころか親達の
中にも、何の疑いも持たず鵜呑みにしてしま
うのが大勢いる。

 こういうとんでもなく見当違いな自尊心を
抱いてしまう人間は、自分の漠然とした潜在
能力はやたら過大評価したがるくせに、それ
を具体的に顕在化する努力はしたがらない。
 努力は保留したままで、人間的価値はどこ
のだれにもひけをとらない、と勝手に決め込
んでしまう。

 何のことはない、へたに努力して、結果が
人より劣っていたら気にくわないからである。

 自信はないくせに、意地だけは一人前以上
に張りたがる。
 こういう人間は、人から嫌われれば嫌われ
るほど、反対につきまとわずにはいられない。

 じつになさけないストーカー心理、という
べきで、自分が相手にあいそをつかすのはい
いが、相手が自分にあいそをつかすのは断じ
て我慢がならない。


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