命日…【ただし、暦の上での】
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2003年06月12日(木)
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本日命日。
……誰の?といわれたら、蘇我入鹿の……。 と、答えてみるワタシ。
乙巳の変ですよー。日付までは、歴史の授業では、たとえ習ってもテストには出ないだろうから、興味のない方には、さっぱりでしょうが……。
さてさて、私はこの「乙巳の変」にもの申したいことは山の用にあるのですが、ある意味ネタバレにつながってしまうので、ハッキリ言ってなんにも言いません。
それでも、何度でも確認しておきたいのは、私らの世代が、授業で習った「大化改新」が「乙巳の変」であって、 そのクーデター後の改革、或いは一連のクーデターを含んでのものが「大化改新」であるのが、あくまでも正しいだろう?と主張! と、いうか、たぶん授業でもそのつもりで教えられてはいるのだろうけれども、あれは小中学生は混乱、もしくは勘違いするからやめろ! ……と言いたい……。
私は、案外あれは、葛城王子(中大兄・天智天皇)は、実際ほとんど関知していなくっても成り立つものだろう、と思っていたりするクチなので(もっとも、史学的には、そんな根拠はむしろない。なにしろ書紀があれだろう…?)西暦645年時点での、中大兄20歳については、あんまり考えていないのではあります。 やはり、あのクーデターの一連の盟主は、軽王(孝徳天皇)であるべきだろう……と。 クーデター後、そもそも大王になっているのが軽王でもあることなんだし。 ただし、あの方の政権が、事実上短期間で失敗してしまっているのが、 「軽王」に対する重要性を見失わせていたりするのは、確かなんじゃないかと思う。 でも、「その後の失敗」と「当時のクーデターに対しての実行力」は別物でしょう……やはり。
だから、クーデターの中心人物=孝徳天皇。
それは、自分の中では、かなり重要要素なのであります。
もちろん、そう思う根拠は、私が一番好きな先生の説、による部分は大きいのですが。 先生は、クーデターの根本は、「軽王」と「古人大兄王子」との「大王位」をめぐっての争いだろう、とおっしゃられるわけで、その形は正しいんだと思うんですよ。 そこに、どう蘇我氏が関わってくるか、と言う問題になったら、蘇我氏は古人王子を大王に押していた、というわけだわね。 シンプルな話は、それだけの話でしかないはずなんだと思うわけですよ。
いろいろなものをそぎ取って、書紀を見れば、そういう骨組みなわけよ。 もちろん、もっと複雑にいろいろ絡んではくるのだけれども……蘇我宗家と、分家との問題、とかさ。
でも、ネタバレになることは、とにかくいわんよ。まだね。 続き描く気は普通に満々だから。
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