Spilt Pieces
2003年06月15日(日)  移
言葉が乱れてきているという。
正しい日本語を、といった類の本が売れる時代。
「時代と共に変わっていくもの」と言ったら怒られた。
「それでもどこかに歯止めは必要だろう」と。


教育実習先の高校で、何度か古文の授業を受けた。
私が古文を理解するためには、時代背景や文法、古語辞典が必要になる。
きっと昔の人たちからしてみれば、今の時代の言葉など、乱れているどころか理解さえできないのではないかと思う。
色んな時代に現れた「改革の人」は、当時非難されても後世で受け入れられたから名が残る。
生前認められずに死後評価が高まる人というのは歴史上数多くいるが、きっとそんなのはつまらないし悲しい。
死んでしまった後のことなど、誰にも分からない。


以前、坂本龍馬を好む人が若者の意見を切り捨てるのは不思議だとどこかで書いたが、言葉にしてもそうだろうと思う。
ただ一様に「乱れている」と責めるばかりでは何も変わらない。
古文を理解する上で時代考証が重要になってくるのと同様に、現代の言葉を理解するためにもやはり時代を考える必要があるに違いない。
同時代だからといって、分かっていると思い込んで、何も考えることなくただ非難するのはおかしい。
多くの人は、自分が生まれ育った時間や国や状況を基準としてしまいがちだから、一歩下がって全体を見渡さない限り、議論をしても平行線だ。
私自身、ほんの数年違いの子どもたちのことさえ分からない。
分からないのは、無意識のうちに自身が育った環境との比較を行ってしまっているからだろう。


時代は移ろいゆく。
その流れのまま、何のストッパーも設けないのであれば、確かにこれまで培われてきた言葉が崩れ去るのも一瞬だろう。
しかし(結局はそのバランスの問題だとは思うが)、なぜ今ここにこのような言葉があるのか、それを考えなければ何の意味もない。
何が「崩れ」で、何が「時代相応」なのか。
私はこれから先どのような言葉を使っていけばいいのか。


言葉は時代の鏡だと思う。
それを考えることなく言葉だけ矯正したところで、どうせ何の効果も望めまい。
「意味さえ伝わればいい」とは思わないし、「伝統ある言葉遣いを」とも思わない。
自分の語彙力が衰えていないか時折省みつつ、今ある言葉との共存をはかっていける、そんな許容力のある大人になりたい。
言葉へとかける思い僅かに留めおき、残る大きな力を内面へ向かわせられたなら。
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