Spilt Pieces
2003年05月07日(水)  言語
以前聴覚障害を持つ人を主人公としたドラマがあった。
私は、実際に目の前で手話を使う人たちを見て、囁いているというよりは滑らかで美しい表現のように感じた。
何かを誰かに伝えるということに対して、私は普段困ることがない。
鈍感なのだと気付く。


今日、聴覚に障害を持つ人たちと彼らの講義で通訳をする人たちの集まりに行った。
私はこの春パソコン通訳の養成講座を受けて参加することになったのだが、就職活動やら教育実習やらがあるので、定期では入らなかった。
この前人が足りないと言われて明日入ることになったのが最初。
集まった人たちの中で、唯一まだ経験のない私は、ただひたすら周りの人たちが意見を言うのを聞いていた。
参考になったし、明日気をつけるべきことも昨日までよりは分かった。


手話が分からないのが悲しかった。
分からない人の方が少数派であったその部屋で、自己紹介をするときに他の学生が私の話す言葉を手話に通訳してくれていた。
まるで、以前隣に住んでいた人がスペイン語か何かで話をしながら楽しそうだったときみたいだ。
聴覚障害を持つ人たちは、毎日こんなのとは比較にならない思いをしているのか。
自分が話す言葉を誰かに直されて、誰かが話す言葉もまた直されてから伝わってくる。
自分には分からないところで皆が笑う。


以前、英語を学ぶのは、英語そのものを学ぶというよりも単にコミュニケーション手段を増やしたいのだと書いたことがある。
言語を学ぶときには、何であれそういう動機が必要なのだろう。
その場にいて、自分だけ話についていけないのは本当に悲しい。
内容が分からないのでもなければ、話が合わないのでもない。
ただ、伝える手段がないから悔しい。
私が感じたことなど、ほんのちょっとした些細なことに過ぎないのだろうけれど、こういうことはどこにでも溢れている。
そしてきっと、大抵の場合それにすら気付かない。
気付かないことは罪であるとかつて誰かが言ったけれど、確かにそうなのだろう。


身体を使って言葉を表現する人たちを見ていて、果たして今までに私はこんなに真剣に話をしたことがあっただろうかと考えた。
「手話が分からなくても、会話をする手段など探せばいくらでもあります。色々話しましょう」
私の気持ちを知ってか知らずか、今回の集まりの責任者の人が優しく笑って言った。
全体に向かって言ったものではあったけれど、自分の心を見透かされたかのようで、ギクリとした。
話をしたいと思ってコミュニケーションのために学ぶことももちろん大切なのだろうけれど、それ以前に大切なことがあるのも忘れてはいけないのだと。
そういえば、その場では手話が片言の人であっても、誰も急かしはしなかった。
一度に皆が話しては伝わらないから、自然に誰もが前の人が話し終わるのを待った。


伝わらないことが怖くて、言葉のせいにしたりタイミングのせいにしたり。
色んな言い訳くらいいくらだって作れる。
ということは、私は今まで何を学んできたのか分からない。
緩やかに言葉が舞う場所で、意味が分かったときも嬉しかったけれど、皆が楽しそうに笑う理由が分かったときの方がずっと嬉しかった。
日々、あちらこちらに学ぶことがあって。
今さらながら、毎日を自分のペースで生き、学べることが幸せだと思う。
明日の通訳、しっかりできますように。
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