Spilt Pieces
2003年03月16日(日)  幸
何を幸せというのか。
思春期の頃に何度も考えたこと、何を今さらと友人たちは笑うかもしれないけれど。
それでももう一度、考えてみる必要があるのだろうと思ったり。
だって、結局のところ今の世の中を動かしているのは色んな人のエゴで、それを完全に排除するのは無理な話だから。
自分の幸せの基準を他人に押し付けてばかりいる。
誰もが自分にとって一番幸せになれる方法を探すのだろうから、これはある意味正論だとは思う。
どんなに利他的に見えても、そうすることが自分にとっての幸せであるのなら、利己的要素を完全に排除することなどできないのだし。
でも、その幸せが他者にとってどういうものであるのか、バランスを考えられるだけの気配りができなければ、多くのものがガラガラと音を立てて崩れ続けるだけ。


個人対個人なら、もう少しは気配りができるのだろうか。
国家対国家なら、実質上どうであるかは別としても、自分の判断に「同じ国」という理由で多くの「味方」を得ることができる。
無数の見えない支援者。
弱虫だね。
隣人を怒鳴ることはできなくても、国家の単位になればできるの?
「正義」なんて半端な抽象表現で誤魔化さず、自分の言葉でしゃべってみたらどうなんだ。
それが主観だと責められるのなら、自分たちは無形の、見えない何かに人生を預けるしかない。
もっと堂々と戦ってみろと言いたくなってしまうのは自分が感情論で話す人間ゆえの過ちなのだろうか。
ずっと、何かがおかしい気がしている。


友人が、反戦デモに出かけると言っていた。
私はその頃、大学の講義室にいた。
内容は、障害者のための支援について。
私は、無力を自覚しながらも何かをしたいと模索してばかりだけど。
でも、願うことはきっと同じ。
身近な平和も祈れない者に、世界の平和など語れるはずもない。
世界の平和も願えない者に、身近な平和など実現できるはずもない。


何を幸せだというのだろう。
今、多くの決断の立場にある人たちに聞いてみたい。
あなた方は、何を幸せだと考えているのですか。
「犠牲」なんて気軽に言うのは、自分がその中に含まれていないからでしょう?
どうしてもと言うのなら、巻き添えにされて殺されるであろう人々、一人ずつに、殺されなければならない理由を説いて納得させて下さい。
その目を、直視してもなお自分の理想を語れるのでしょうか。


ブラック・ジャックのうちの一話、「病院ジャック」の中に出てきた台詞。
簡単に五人の人を殺してしまった犯人たちに対し、ブラック・ジャックは言った。
「こっちは、ひとり助けるだけでせいいっぱいなんだ」


単なる数字の一として、歴史の渦の中に人が消えていってしまうことを、自分に大切な存在がいる人なら反対してほしいと願う。
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