Spilt Pieces
2003年03月08日(土)  死
私は、私だ。
だが、私は自分で自分を生かすことはできない。
誰かがいないと、生きていられない。
逆に言うと、誰かがいれば生きていられるということかもしれない。


自分が死んで、誰かが困るかどうかなんて分からない。
自分が、社会的にみてどれだけ価値のある人間なのかも分からない。
それでも、どこかの誰かが何人かは泣いてくれるだろうと思える。
だから死なない。
生きる理由が分からなくても、私は、死んではならない理由だけは分かる。


授業でのこと。
「最近の子どもは生きるということの意味が分かっていない」
「だから、簡単に自殺もする」
「自分たちがどれほど多くの生き物を殺して生きているのか実感する必要がある」
「死んではならない、生きることは義務なのだと知れば死なないだろう」
そう言って、これから初等・中等教育においてどんな授業が必要なのか、と語っている人がいた。
私は、心の中で反論していた。


自分も、数年前までは同じことを考えていた。
だけど今は違うと思う。
そういうことが分からないという理由だけで死ぬわけじゃない。
分かったところで、義務感と感情の狭間で苦しむだけだ。
死にたいと、多くの人が一度は思うかもしれない。
でも、ほとんどの人は実行しない。


自分が求められているということ、自分がいなくなって泣く人がいるということを、現実的に考えられなかったりその実感がなかったり。
それはとても怖い。
私は人のために生きているわけではない。
でも、自分だけのために生きているわけでもない。
常に他者のことを考えているというのは、何だか変な気もする。
だけどこの世界において生きるということは、誰かと必ず関わっているというわけで、だからそれはとても自然なことだし、誰かに自分の存在意義を求めるのはおかしいことじゃない。


私は、自分が大切だと思う全ての人に死んでほしくない。
「自殺をするのは人間だけだ」
「動物は、他を殺して生きていることを本能的に知っているから、死なないのだ」
そんなこと言ったって、誰かを救えるわけじゃない。
人間は感情を持っている。
それが幸か不幸か。
発展もすれば、殺し合いもする。
単純比較をしたって、話が先に進むはずもない。
どうせ、解決などありえない問題だけど。


じゃあどんな教育が必要なのか。
私には、色んなことに疑問を感じはしても、それをどうすればいいのか具体案が見えない。
だから教職は目指さない。
無責任なだけかもしれない。


「どうして人を殺してはいけないの?」
もし誰もがこの問いに答えられないとしても、感情論で私は言うだろう。
「殺してほしくないからだよ」
そう願うのが、自分かもしれないし、他人かもしれないけれど。
人間は感情を持っている。
他の動物も持っているかもしれない。
でも少なくとも私は人間以外を経験したことがないから分からないし確信も持てない。
あくまでも想像やら予測の範囲を出ない。
ただ、少なくとも人間に感情があるということを、私は知っている。
だから、感情論をぶつけても、それはそれでいいんじゃないかとも思う。


「死を教える」なんて、簡単に言わないでよ。
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