![]()
| 2005年07月02日(土) 詩のココロ。 |
| 現在「月刊男心」というコンテンツで、詩という新しい表現方法に挑戦しているのだが、ただ無暗にポエムっぽいものを書くのではなく、ここは一丁基本から勉強してやろうと、著名な詩人の作品を読み漁っているのだが妙なことに詩って何を書いてるのか全然わからない。 「僕は海 永劫の波の揺れの中に 生まれたばかりのイタチを見た」 例えば有名なこの詩。まったくヘンテコである。何言ってんだい早く洗濯物干してきなって怒りたくなるような作品である。こんなん書いて印税貰ってんのである。と、ひがんでばかりおらずにこの作品を吟味してみよう。 まず「僕は海」お前海じゃねえよ昨日仕事行ってたじゃねぇか。と、文句しか書けないが、著者は小さな存在である自分を絶対的な大きさの海に置き換え、何かを伝えようとしている。 「永劫の波の揺れの中」この「永劫」という言葉に並々ならぬ、到底覆せぬ、決して抗うことのできぬ大きさを感じるではないか! 海は広いな大きいな。小さい僕の中に永劫の波が揺れている! と、そんなわけ絶対ないけど、波の揺れはとにかく永劫。これすげぇことなんだよと著者は伝えてるんだ。 で、「生まれたばかりのイタチを見た」なんでまたイタチなんだ。と、そんなことはどうでもよくて、永劫という言葉は普遍という言葉を喚起させるので、なぜ普遍なモノに新しい命が? と、読者の頭にクエスチョンマーク。著者してやったり。永劫の中に命あり。命の中に永劫あり。まぁこんなことを伝えたいわけだね。と、僕なりの解釈をしてみた。 でもそんな回りくどいことなんてしなくて、最初っから「永劫の中に命あり。命の中に永劫あり」って書けばいいじゃんと僕は思う。詩集を読んでいると、巻末の解説に「この詩はこういうことを表現してるのですよ」みたいな文が書いてあるが、だったら最初っからそう言えよと、短気な僕は思ってしまう。 でも詩人はわかりにくいようわかりにくいよう伝わらないよう伝わりにくいように作品を書く。わかる奴だけわかりゃいんだの姿勢で。そういう姿勢が芸術的なセンスに基づいてならばいいのだけど、ただわかる奴にはわかればいいと表面的な姿勢で、ブログかなんかに自作の詩を書いたりする。まぁ僕がそれに当たるのだが、そんなものちっとも面白くない。 で、冒頭の永劫のイタチの詩。この日記を読んでる人はそれなりの解釈をしたのかもしれない。だって僕が「例えば有名なこの詩」と書いたから。でもこんな詩、有名もへったくれもない、ただ僕が適当に考えて作った即席の詩である。 ここに詩のヒントが隠されている。要するに、有名だからみんなこれ読んでるから知ってるから、僕も私も知りたい知っておきたいという排他性を恐れる人間のなせる業で、適当に書いた詩もどうにか解釈して合理化して自分の型に無理矢理はめようとする。そんなものだと思うよ。そんなものだと思いたいよ。だってどんな詩集も読んでてさっぱりわからないんだから。 |
| 翌日 / 目次 / 先日 |