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2003年05月16日(金)

私には無理

ちとクソ真面目な話で。

4年ぐらい前に資格を取りたいと真剣に大学を探した事がある。
その頃までの私は人付き合いが良くて、家の電話が鳴らない日の方が珍しかった。
人の話を聞くのが苦痛じゃなかった頃の話だ。
他人の事を構える、気持ちの余裕がどんな状況でもあった頃の話だ。
自宅で夜中まで仕事をしていて、翌朝通勤する人間じゃ無いという気安さもあったのだろう。
昼夜夜中関係なく、電話が鳴っていた。

そんな私を見ていた友人の中には、「そんなの相手にしてたら身が持たないよ」と心配してくれる子も居た。
何故にそんな心配をされるのか、全くピンと来なかった。
私としては、内容がどうであれ。電話をしてきてくれる事が嬉しかったのだと思う。
そんな中、ある一人の友人が、呆れたように冗談交じりで「金取れや」と言った事がある。
だからと言う訳では無いが。その冗談を聞いた一年後に、私はそういった仕事が出来るなら職業にしよう。そう考えるようになった。
何も知識が無い中、ネットで調べ、安易になれ無い事を知った。
他人の生活に関わる職業なのだから、当然だ。
そういう職業になるにはともかく大学でその分野の専攻をして、資格を取らなければならならず。
地方の大学の通信の資料を沢山揃え、検討し始めた。

検討し始めた頃。父上の入退院の回数が増えていった。
大学どころの騒ぎじゃ無くなった。
勿論、大学への資金は自分で出すのだが、先が見えないと感じた。
翌年の4月からの自分の生活が、現状のままだという自信が経済的にも無かった。
いつもでも最悪を考えて行動をする私は、父上が働けなくなった時の事を考えた。
両親の生活を考えると、大学へ使うようなお金は無いように感じた。
そして両親の相手を毎日する状況になり、仕事も忙しく、時間的余裕も無くなった。
それが、何年続くか分からないと思った。
父上が生き続けると信じ込んでいたから、長い時間になると考えた。

その数年前に、父上は最初の手術をした。
その時、父上に、かつて私が手術入院を二回もしたのに一度も見舞いに行かなかった事を謝罪された。
「行ってやらなくて、悪かったな」
この言葉を、父上からその後、何度聞いた事か。
私は両親が見舞いに来ないことを、特に不満に思ってはいなかった。
病院が東京だったので、遠いから仕方がないと。そう思っていたし。友達も姉も来てくれてたので、暇だと感じる事も無かったから。
ただ、二度目の時。
一人で2週間分の荷物をもって入院した日は、周りが親に付き添われているのを見て、少し寂しいと思った。
退院の日は友達が親の車を借りて迎えに来てくれた。
「お母さんに話したら、一人で退院なんて可愛そうだわって言ってたから」
と言われ、初めて「普通は違う」という事に気付いた。
病室の隣のベッドのご婦人にも、「お母さんが来てくれるの?」と聞かれた。
泣きそうになった。

だから、父上が何度も謝るその言葉は、父上自身の入院中の寂しさや不安の大きさを象徴するものだと感じた。
まだ原チャリしか持ってない頃には、雨の日は歩いて見舞いに行った。
そうすると、いつも以上に父上は「悪いな」と申し訳なさそうだった。
入院してる家族を、近くに居たら毎日見舞いに行く。
それは、当然と思っていた。
だから、父上に毎度感謝されたり申し訳ながられたりする事に戸惑いを感じた。
病人に気を使わせるのならば、行かない方が良いか?そう思った事もあった。
でも、待っている気持ちの方が強い事は、親子だから理解できた。
ただ時々。
「待たれている」というプレッシャーに押しつぶされそうになる事もあった。
仕事でどうしても家から出られずに居る日に、母上から
「もう少ししたら、あるひが来るから」
と父上が言ってたと聞かされると、行く足取りが重くなった。
徹夜明けで、数時間でも眠りたい日には、昼に時間が取れても「仕事だ」と言って行かない時もあった。
そんな日は、「待ってるのに」という罪悪感で、疲れ果てていても眠れなかった。

友達からの電話は相変わらずだったが、父上が病気だと言うと、遠慮して掛けてこなくなる子も居た。
でも何人かとは、相変わらずの状態だった。
病院に夜に行き、泊る生活が始まると、さすがに電話に出る事ができなくなった。
でも、留守電があれば折り返すぐらいはしていた。まだ余裕があった。
メールにも、必ず返信をしていた。
父上が亡くなって一ヶ月ぐらいまでは、実家に夜行ってたりもしたが、電話もしていたし、メールも返信していた。
でも、2ヶ月目からは、電話が鳴っても出なくなり。着信を見ても折り返さず。メールも返信しなくなった。
人の話を聞く事が苦痛になり、電話は勿論。誘われても人と会うのが億劫で断り続けた。
この状態が2年近く続いた。

父上が亡くなった後、義兄の御見舞いに行く回数も減った。
元々お見舞いというよりは、姉を迎えに行くというつもりで行っていたからだ。
父上を見舞い、義兄の病院に行き、姉を送る事もあった。
今思えば、付き添う姉の心労の方が心配だったのだろう。
それは、自分が父上の側に居て、キツい時期があったから想像できた事だ。
それから義兄は転院して遠かった時期もあり、私の見舞の足が遠のいた。
義兄に対し私は、友達の旦那と同じぐらいの感覚で、姉の旦那という意識しか無かった。
それが、時々姉に「あるひちゃん、来ないかなぁって言ってる」と言われるようになり。
私が行くと親しげな笑顔を見せ、冗談を言うようになった義兄の変化に、家族なのだと気付かされた。
他人の病気と身内の病気とでは、抱える重さが違う。
父上の時と同じ、「待っている」という感覚が蘇ってきた。

父上が亡くなった後、そして義兄が入院している間に私の心に常に重くのしかかっていたのは、彼らの寂しさだった。
もともと大学へと思っていた分野は福祉関係だった事もあり、また考えるようになった。
ただ、私には介護は出来ない。表情を変えずにお世話をする自信が無い。
だから、寂しさを少しでも軽減できる事を考え始めた。
老人の話相手をするボランティアがあるように。病人にもあっていいはずだ。
専門的な介護では無く、一緒に食事をしたり、話し相手をしたりする人間が居てもいいはずだ。
家族の負担を軽減するのは、逆に、専門的な介護よりそういった方向のお手伝いなんじゃないか?
そう考えた。

どちらにしても、大学に行ったり、専門的な学校に行く必要がある事に代わりは無い。
範囲を広げて資料を集めた。
でも、人に会うのが億劫になっているのに、新しい事を始めるのはもっと無理だった。
今、父上が亡くなって2年半が経つ。
父上が亡くなってから出会ったお相手には、友達が少なく、仕事で人と会う事も無く、話し相手も居なくて可愛そうだと言われている状態だ。
父上が亡くなる以前の私を知らない人間に、前はそうじゃなかったと言っても信憑性が無い。
2年も連絡を断てば、友達に誘われなくなるのは当然だ。
友達の数が減ったとは思っていないが、遊べる相手が減ったとは思う。
あんなに鳴っていた電話も、今は殆どならない。メールの相手は1/10だ。

説明したところで、理解は得られないだろう。
例え肉親が亡くなっても、変らない人もきっと居る。
それが理由で一時的に人と関わりたくない時間があるとしても、その長さも人それぞれで。
その気持ちの表現方法だって違うだろう。
ずっと泣いてる人もいるだろうし、ただ人に会わないだけで、仕事も生活も変らない人も居るだろう。
本人じゃなければ分からない事だ。

2年が過ぎて、少しずつ私はまた考えるようになった。
でも、仕事の状況で経済的に大学は無理。じゃぁ、別の道から始めようかと、具体的に行動に移す事を思案し始めた。
ボランティアから始めるのもいいかと考えはじめていた。
でも、それを話すと、残った数少ない友人二人に「あるひは、精神的に持たない」と言われた。
人の事を背負い込んで、自分が参ってしまうだろうという理由らしい。
でも、私は仕事としてやるからには、割り切りが出来ると自信があった。
言い方は悪いが、私がそんな人間だったら、元々人からの電話をあんなに受けてはいられなかっただろうし。
どこかで、他人事と割り切れたからこそ、愚痴や悩みを長い時間聞きつづけていられたのだ。

でも。
最近、お相手が毎日仕事の話をする。
介護の話だ。
オムツをしてても、トイレに行きたいと言う老人の話。
動く事は出来ないが、意識がはっきりしている老人の話。
車椅子でも、押してもらえないと行きたい所へ行けない老人の話。
そして、それに答えている時間が無い介護をする人間の現状。

トイレに行きたいという意思があるのなら、連れて行くべきじゃないか?
意識があるのに動けない辛さを、想像してあげてもいいじゃないか?
行きたいと言うのなら、ちょっとの時間を割いて連れてってもいいじゃないか?

聞くたびに、ズシンズシンと気持ちが重くなっていく。
全ての話が2年前とオーバーラップして耳を塞ぎたくなる。

そして、私には無理だと気付いた。
自分が甘かった事に気付いた。
話相手だけ。食事のお世話だけ。遊び相手だけ。
そんなボランティアに行ったとしても、それ以外の状況を嫌でも見ることになるのだ。
見てしまったら、どうしてやってあげないのか?と思ってしまうだろう。
だけど、きっと、私にはどうする事も出来ないだろう。
それなら、安易にその道を選ばない方が賢明なのだろうと思う。

かつて、父上に言われた言葉を思い出した。
何年も通院をしている友達が実家に来た事がある。
父上の自慢の品などと見せ、楽しく両親共に会話をしていた。
その後、遊びに誘われたのだが、疲れていたので私は断って見送った。
父は、そんな私に「お前は賢いな」と言った。
父にとっては、私が断ったことで、彼女と深く関わるのを避けているように見えたらしい。
それが賢い選択だと。

背負いきれない荷物を背負うな。

その意味が、今、やっと分かった気がする。